観光都市ハワイとしての発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:05 UTC 版)
「ハワイの歴史」の記事における「観光都市ハワイとしての発展」の解説
1959年に立州化して10年間で、ハワイはホテルやマンションの立ち並ぶ都会へと変貌するため、総額34億ドルにも上る建築が行われた。ディリンガムのハワイアン・ランド社による初の大型ショッピングモール、アラモアナショッピングセンターの開業、ジェット空路の連絡、貨物、旅客、車両を運搬する大型船舶のための埠頭の建築、陸上幹線道路や水道の整備など、リゾート観光開発とそれに伴うインフラの近代化が加速した。 1963年のアメリカ人に対するギャラップ調査「金銭的なことを考えずに休暇を過ごしてみたい場所」において、2位カリフォルニアに2倍近い差をつけた1位を獲得するなど、立州を契機として観光産業が繁栄し、アメリカ国内外を問わず、観光客の来州は着実に増加し、1967年12月28日、100万人目の観光客を記録した。 日本が旅行規制を解除した1964年、日本人観光客を見込んだハワイでは日本語表示の導入や従業員への日本語教育を本格的に導入する。1970年からはパッケージツアーが本格化し、日本資本がハワイには欠かせない収入源となるほどになった。 こうした日本の動きは投機面においても無視できない存在となる。日本の実業家小佐野賢治が1962年、ワイキキのモアナ・ホテルとプリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドルで買収したのを皮切りとして1972年までの10年間で50以上の日本の会社がハワイの不動産や企業を買収し、ハワイ支店を開設した。1974年にはハワイ州上院議員アンダーソンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として取り上げられるようになった。1980年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿り、川本源司郎や、川口勝弘 といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊った。 「ジャパンマネー」に対する世論は非常に硬化し、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターの研究者や経済評論家クライド・プレストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワイに与える影響やその問題を強く憂慮した。 また、高級リゾートホテルと並び、開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点で68のゴルフコースがあり、さらに当年、州政府に対して93件のゴルフ場開発の申請が出されるなど、ゴルフ場建設ラッシュとなった。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質素な生活を求める地元住民との摩擦を生み、問題となった。これに対しファシ市長は、公共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場1件の開設につき1億ドルを支払うよう開発者側に求め、それを地元へ還元することで、摩擦の解消を図った。 1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響により、土地・住宅価格の高騰が起こった。しかし、インフレを懸念した日本政府や日本銀行の締め付けにより、投資欲が減衰し、1989年10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイにおいても日本企業、日本人投資家からの投資が減退した。進行していた数々のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫し、棚上げされた。 1967年に砂糖・パイナップル産業の収入を超え、名実共にハワイ最大の産業となって右肩上がりを続けてきた観光業は、1991年に初めて前年比1.2%減という落ち込みを記録した。
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