衆議院議員、歴史研究者としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 衆議院議員、歴史研究者としての意味・解説 

衆議院議員、歴史研究者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:36 UTC 版)

菊池謙二郎」の記事における「衆議院議員、歴史研究者として」の解説

1924年大正13年)、第15回衆議院議員総選挙無所属で当選。 『衆議院要覧. 大正15年9月(乙)』では正六位5月21日水曜前掲日米新聞」に「日本議会新人(六)藤田東湖再来菊池謙次郎君」として紹介記事載る年齢五十の阪を越しているが彼の偉大な人格十二分に認められずして今日至り壇上にその巨躯運び新人侠骨稜々たる古武士風格とも形容、「舌禍事件」での守屋側については、固陋にして眼腔の小なる官憲矮小陋劣人物たる時の茨城県知事守屋源次郎と書き守屋側の行為がかえって謙二郎を全国的に知らしめる事となったとしている。記事翌日続き、床次氏の知遇笠に着横暴な守屋氏とは相反目、総選挙二者とも立候補し一は見事に当選、一は悲惨な敗北遂げ真の教育者菊池氏議会送られたことは悦ぶところとしている。 同年7月8日菊池謙二郎提出教育改善拡張ニ関スル質問ニ対スル文部大臣答』。 1925年大正14年3月7日大阪朝日新聞治安維持法反対票を投じる見込み国会議員30名の内の1人として報じる同年茨城県下電番号簿』での住所は上梅香電話番号608前述環翠亭は南三ノ丸、発行等は水戸市上市泉町1033川又銀蔵1926年大正15年)『政局をめぐる人々』の「教育家菊池謙二郎」の項には水戸中学校退職件のほか、「腹で教育」「してきた」菊池先生として「一厘の金も使はず、一回個別訪問もせず競争者を遙か谷底に蹴落とし」と絶賛する一方政治家としての技量は心配する記述がある。同書別の著者による「漱石親友中村是公」の項には「昔、大学時代漱石とかれと菊池謙二郎三角同盟作って独身誓ひ立てた時分」とある。 『菊池謙二郎提出政治道徳文政ニ関スル質問ニ対スル内閣総理文部大臣答弁書』。 1927年昭和2年5月25日NHKラジオ講演1928年昭和3年第16回衆議院議員総選挙落選著作義公略伝』、巻末には茨城県知事森岡二朗による発刊簡略な説明がある。講演『謎の義公』。宮武茂平編『普選第一次敗将の語らひ』へ寄稿1932年昭和7年)忠三郎死去1933年昭和8年寄稿追憶片々』、秋山真之への追悼1934年昭和9年8月、県教育会依頼で、阿部嘉七県知事挨拶の後、700余名小学校教師3日連続午前中弘道館記』の講義を行う。8月9日地元紙「いはらき」に載った「仙湖翁礼賛」とする投書では「痩身矮躯」とある。 1936年昭和11年東京転居一時鎌倉在住)。 1943年昭和18年)『水戸学』、明治から昭和に至る著作講演等もまとめられている。 1945年昭和20年2月3日4年近く闘病の後、寓居東京都小石川区高田老松町にて死去

※この「衆議院議員、歴史研究者として」の解説は、「菊池謙二郎」の解説の一部です。
「衆議院議員、歴史研究者として」を含む「菊池謙二郎」の記事については、「菊池謙二郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「衆議院議員、歴史研究者として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

衆議院議員、歴史研究者としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



衆議院議員、歴史研究者としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの菊池謙二郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS