衆議院議員、歴史研究者として
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「菊池謙二郎」の記事における「衆議院議員、歴史研究者として」の解説
1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に無所属で当選。 『衆議院要覧. 大正15年9月(乙)』では正六位。 5月21日水曜、前掲「日米新聞」に「日本議会の新人物(六)藤田東湖の再来菊池謙次郎君」として紹介記事が載る。年齢は五十の阪を越しているが彼の偉大なる人格は十二分に認められずして今日に至り、壇上にその巨躯を運びし新人、侠骨稜々たる古武士的風格とも形容、「舌禍事件」での守屋側については、固陋にして眼腔の小なる官憲、矮小陋劣の人物たる時の茨城県知事守屋源次郎と書き、守屋側の行為がかえって謙二郎を全国的に知らしめる事となったとしている。記事は翌日に続き、床次氏の知遇を笠に着た横暴な守屋氏とは相反目、総選挙に二者とも立候補し一は見事に当選、一は悲惨なる敗北を遂げ、真の教育者の菊池氏が議会に送られたことは悦ぶところとしている。 同年7月8日『菊池謙二郎提出教育ノ改善拡張ニ関スル質問ニ対スル文部大臣答』。 1925年(大正14年)3月7日、大阪朝日新聞は治安維持法に反対票を投じる見込みの国会議員約30名の内の1人として報じる。 同年『茨城県下電話番号簿』での住所は上梅香電話番号は608、前述環翠亭は南三ノ丸、発行等は水戸市上市泉町1033川又銀蔵。 1926年(大正15年)『政局をめぐる人々』の「教育家・菊池謙二郎」の項には水戸中学校長退職の件のほか、「腹で教育」「してきた」菊池先生として「一厘の金も使はず、一回の個別訪問もせず競争者を遙か谷底に蹴落とし」と絶賛する一方、政治家としての技量は心配する記述がある。同書の別の著者による「漱石の親友・中村是公」の項には「昔、大学時代漱石とかれと菊池謙二郎が三角同盟を作って独身の誓ひを立てた時分」とある。 『菊池謙二郎提出政治道徳並文政ニ関スル質問ニ対スル内閣総理、文部両大臣答弁書』。 1927年(昭和2年)5月25日NHKラジオ講演。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で落選。著作『義公略伝』、巻末には茨城県知事森岡二朗による発刊の簡略な説明がある。講演『謎の義公』。宮武茂平編『普選第一次敗将の語らひ』へ寄稿。 1932年(昭和7年)忠三郎死去。 1933年(昭和8年)寄稿『追憶片々』、秋山真之への追悼。 1934年(昭和9年)8月、県教育会の依頼で、阿部嘉七県知事の挨拶の後、700余名の小学校教師に3日連続で午前中『弘道館記』の講義を行う。8月9日、地元紙「いはらき」に載った「仙湖翁礼賛」とする投書では「痩身矮躯」とある。 1936年(昭和11年)東京に転居(一時鎌倉在住)。 1943年(昭和18年)『水戸学論藪』、明治から昭和に至る著作、講演等もまとめられている。 1945年(昭和20年)2月3日、4年近くの闘病の後、寓居東京都小石川区高田老松町にて死去。
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