荒木村重
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荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。
注釈
- ^ 『寛政重修諸家譜』は村次の母としている[4]。だしがこの北河原三河守の女ではないかとする説もあるが、今のところだしと村次が年齢が近いということになっているため有力とは言えない。
- ^ 中川清秀の父[8]。
- ^ 過去の過ちを恥じて「道糞」と名乗り、秀吉の命で「道薫」に改めたとの説があるが、「道糞」と記した一次史料は見られず、事実ではないと指摘される[19]。また、村重が高山右近を讒訴し、秀吉の勘気を受けて出家したとの話も、右近寄りの宣教師が残した史料にしかなく事実かどうかは疑わしいとされる[20]。
- ^ 同時代の荒木氏には荒木清長がいるが関係は不明。
- ^ 天正6年6月2日付け古志重信宛て吉川元春書状(『牛尾家文書』)[23]
出典
- ^ (元亀元年)6月24日付池田一族等連署書状(『中之坊文書』)。
- ^ 天野 2015, pp. 111–112; 天野 2017, p. 15.
- ^ a b c 『系図纂要』より。
- ^ a b c d e f 寛政譜 1923, p. 388.
- ^ 天野 2017, p. 70; 中西 2019, p. 181.
- ^ a b c 天野 2017, p. 12.
- ^ a b c 寛政譜 1923, p. 387.
- ^ a b 能勢町史編纂委員会 1975, p. 95.
- ^ a b 国立公文書館デジタルアーカイブ『寛永諸家系図伝 藤原氏 丙2 北家』(国立公文書館所蔵、28コマ)。
- ^ 天野 2017, pp. 31–33; 中西 2019, p. 180.
- ^ 天野 2017, pp. 31–33.
- ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 476.
- ^ 荒木村重の戦いと尼崎城[リンク切れ]
- ^ 小川 2020.
- ^ a b 「軍師官兵衛」にも登場、荒木村重しのび茶会 : ニュース : 新おとな総研- 読売新聞[リンク切れ]
- ^ 『中国新聞』、2014年2月28日、12面。
- ^ 天野 2017, p. 85.
- ^ 天野 2017, p. 82.
- ^ 天野 2017, p. 83.
- ^ 天野 2017, pp. 86–87.
- ^ 『荒木略記』、『寛永諸家系図伝』、『陰徳太平記』。
- ^ a b 寛政譜 1923, p. 381.
- ^ a b 光成 2016, p. 135.
- ^ 山田 2019, p. 284.
- ^ a b 山田 2019, p. 285.
- ^ 天野 2015, pp. 130–136.
- ^ 『岩佐家譜』など。近年『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図を根拠に、又兵衛は村重の末子ではなく、村次の長男で村重の孫とする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。
- ^ 熊本藩細川家の家譜『綿考輯録』(『細川家記』)巻五(『出水叢書一 綿考輯録 藤孝公』所収、出水神社 ISBN 978-4-7629-9323-7)
- ^ 岸和田市:市史史料目録「荒木家文書」
- ^ “荒木流拳法”. 日本古武道協会 (2010年1月19日). 2010年1月19日閲覧。
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