花火師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:16 UTC 版)
創業350年以上を誇る宗家花火鍵屋14代目の3人娘の次女として生まれたこともあって、幼い頃から花火に慣れ親しんでいた。小学校2年の時には父親から花火の道に進みたいかと尋ねられると、早くも家業を継ぐと宣言した。父親も次女がおてんばでカラッとした性格だということもあり、3人の中で一番この仕事に向いていると思っていた。数年後に再び尋ねられると、同じ返答をした。この時に周囲から15代目は次女が継ぐことになるとの暗黙の了解ができたという。ただし18歳になるまでは法律によって火薬や花火に触れることが禁じられていたために、柔道の方に精力を注ぐこととなった。 18歳になった大学1年の夏に、本格的な花火修行のスタートを切った。大学2年の時には火薬類取扱保安責任者の資格を得た。また、積極的に父親や職人の仕事を手伝うなどしているうちに「花火のことはすべて分かった」と考えるようになり、父親にも色々と意見するようになった。「あのころは、怖いもの知らず。私の人生はバラ色で、地球は私のために回っている、って感じでしたね」と当時を振り返った。しかしながら、母親には「生意気を言うのなら、花火の仕事なんてやめなさい。別にアッコちゃんが跡を継がなくてもいいんだからね」と諭されたという。この発言に反発を感じたものの、実際の現場では自分がいなくても何ら問題なく機能していることを知った。そして時間の経過とともに、結局は花火について何も学んでいなかったことを理解するに至った。そのような経緯もあって、大学卒業後は実家と取引関係のない工場で修行を積む決意を固めた。火薬を直接扱うことの危険性を知る父親は反対したが、押し切った。 工場での修行では、花火製造の全てを学ぶとともに、職人としての厳しさやコミュニケーションの難しさなど、花火以外のあれこれに関しても多くを学ぶことになった。工場長からは「普通は5、6年がかりで覚える仕事を1年で覚えたな」と言われるほどの成長を遂げた。かくして火薬類製造保安責任者の免許も取得した。 修行を終えて鍵屋に戻ると、今度は15代目を継ぐための修行に入った。そうこうしているうちに、娘が人間的に大きく成長を遂げたと感じ取った父親は、1995年夏に千葉県の浦安で行われた約9000発の花火を打ち上げる大会の統括責任者に初めて任命した。大会は無事成功裏に終わり、「打ち上げが終わったあと、最後の点検で現場を回ったとき、涙が止まらなくなりました。きっとホッとしたんでしょうね」と、この時の模様を振り返った。また、花火の現場は数十年前まで女性が足を踏み入れることも許されていなかった世界であったことから、当初は職人があまり話を聞いてくれなかったものの、26~7歳になったあたりから職人との信頼関係も築けるようになってきたという。 2000年1月には女性として初めてとなる鍵屋15代目の当主を襲名した。「私は15代目当主になるために生まれた」というかねてからの思いが、ついに実現する運びとなった。毎年夏に開催される観客動員数日本一を誇る江戸川区花火大会では、100名ほどの職人を統率している。そこでは天野の合図によって約14000発の花火が打ち上げられる。15代目を継いでから、花火について改めて学びたいと考え、日本大学大学院芸術学研究科に入学。それまで花火は工学の一分野として位置づけられており、芸術学の分野で花火を研究するという例はなかった。2009年、論文「打ち揚げ花火の『印象』─実験的研究による考察─」で博士号を取得した。
※この「花火師として」の解説は、「天野安喜子」の解説の一部です。
「花火師として」を含む「天野安喜子」の記事については、「天野安喜子」の概要を参照ください。
- 花火師としてのページへのリンク