船橋時代
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1605年(慶長10年)6月28日に隠居し、富山城を居城とした加賀前田家2代前田利長は、富山城の改修と同時に富山の町割りを定め、新城下町を整備したが、舟橋はこの頃にそれまでの舟渡しを改めて架橋されたものと考えられている。1606年(慶長11年)に舟橋小嶋町に住む船頭の居屋敷に係る地子を免ずる旨の史料が残っていることから、この頃には既に舟渡しは舟橋に改まっていたものといわれる。この舟橋架橋以前には、舟渡しが両岸連絡の任務を果しており、その渡し舟に関する掟は、1580年(天正8年)11月に佐々成政が定めたものが最も早いものとされる。 なお、1596年(慶長元年)に前田利家により52艘の船を太綱で繋ぎ、2列の板を使用した舟橋が架橋されているが、架橋場所は江戸時代の位置とは異なっている。 1639年(寛永16年)6月20日、前田利常の隠居に伴い、その次男利次に富山10万石が分与され富山藩が成立し、新川郡と婦負郡の境に当る舟橋は加賀藩と富山藩双方が関係する橋となったので、1641年(寛永18年)正月に利常は神通川船橋掟を定めてこれを富山藩に通牒した。分藩当初の富山藩は飛地が多く、不合理な状態が続いていたので、1659年(万治2年)に前田利次はそれまで借地であった富山城城下の富山町と新川郡浦山村一帯を加賀藩と交換し、翌1660年(万治3年)に富山城を居城と定め、1661年(万治4年)5月よりその修繕や城下町の整備事業に着手した。これにより、富山町の区分が改められることとなったため、それまで富山城の東側に架橋されていた舟橋は、富山城の北西にあたる七間町と船頭町の間に架かることとなり、その管理等もすべて富山藩が行うこととなった。 橋は、富山のランドマークであり周辺は茶店やます寿司の店が並び賑わった。1709年(宝永6年)、藩は橋の周囲で町民が納涼のための舟遊びをしたり、太鼓や三味線などの楽器の打ち鳴らし、浄瑠璃などの語り、花火をすることは華奢であるとして禁止している。 船橋は両岸に鎖杭という太さ4尺(約1.21m)、地上部分の長さ1丈5尺(約4.55m)もある欅の柱をそれぞれ2本立て、太い鉄鎖(一つ長さ約25cm)を両岸より渡し、その鎖に長さ6間余(約10.91m)、幅6尺2寸(約1.88m)、深さ1尺7寸5分(約53.0cm)の舟を64艘浮かべ繋ぐ。鎖は中央で鍵で繋ぎ碇をつけて川底に固定した。舟の上には長さ5間2尺(約9.45m)、幅1尺2寸以上(約36.4cm)、厚さ3寸(約9.1cm)の板を4列で32枚を掛け、大水のときには規定水位を超えると鍵を外して橋を切り離し流失を防いだ。また橋を切り離し再び繋ぐまでは渡し船を出していた。なお後に、板は7列に、鎖は1649年(慶安2年)以降、雄雌2条の鎖に変更されている。 江戸時代には他所にも舟橋はあり、福井には長さ120間(約218m、舟数48艘)の九頭竜川舟橋(越前舟橋・現九頭竜橋)、盛岡の北上川には長さ110間(約200m、舟数48艘)の新山舟橋(南部舟橋・現明治橋)などがありそれぞれ図会(ずえ)が残されているが、いずれの橋もほぼ真っ直ぐに描かれている。しかし日本屈指の急流であり、春には特に水量が増え川幅も広い神通川の船橋は、初代歌川広重が「六十余州名所図会」に「冨山船橋」として描くなど、多くの浮世絵などの図会が制作されているが、いずれの図会も川の流れにより大きく下流側に弧を描く橋が描かれており、そのダイナミックな姿や、「東遊記」など多くの紀行文などが他国に紹介されたことにより全国に知られることとなり、立山と共に越中名所の一つとなった。
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