航路開設の背景とは? わかりやすく解説

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航路開設の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 02:05 UTC 版)

日華連絡船」の記事における「航路開設の背景」の解説

長崎港1571年元亀2年)、ポルトガル貿易港として開港以後安政開国まで外国貿易玄関口として重要な役割担っていた。 開国後1867年慶応3年開設のパシフィック・メール・ライン(英語版)(太平洋郵船)の横浜上海航路や、1875年明治3年)に日本企業初の国際定期航路である三菱会社横浜上海航路寄港地となった1884年明治17年)には大阪商船が千馬町に、日本郵船梅香崎町それぞれ長崎市内に支店構えたほか、三井物産喜久商会、ホーム・リンガー商会等が長崎発着内外航路運行していた。大正初期には日本郵船横浜上海横浜天津横浜豪州香港シアトル航路大阪商船北米南米欧州航路東洋汽船横浜香港航路などの国際定期航路寄港地となっていた。 しかし、明治後期以後横浜港神戸港門司港追い上げや、特別輸出港に指定され口之津港三角港博多港台頭貿易不振に陥いり、その影響は港を抱え長崎の町にも及んでいた。また、前述国際定期航路寄港単なる寄港地としての扱いで、長崎経済への恩恵微々たるものであった。 この状況重く見た長崎商人からは、長崎港起点とする外国航路求める声が上がり長崎商業会議所1910年明治43年)、後藤新平逓信大臣対し長崎上海隔日一回、3,000トンクラスの旅客船2隻を運行東京から連絡手段として東京長崎直通急行列車運行させて、東京大阪長崎上海所要時間短縮する」といった内容決議書を提出した当時上海中国最大産業都市であり、仮に航路開設実現すれば日本上海を結ぶ幹線として、長崎はその中継地点として大い発展するとの目論見があったとされる。 国への請願から8年後の1918年大正7年10月長崎商業会議所長崎県知事及び長崎市長対し長崎港商港として発展させるべきで、日中親善長崎商業の発展のためにもその為に上海航路開設急務である」といった内容建議提出し改め長崎上海を結ぶ航路開設請願した1920年大正9年1月には長崎市高崎行一市長市議会長、その他新聞社幹部が「日支連絡船視察団」として中国訪問し上海蘇州南京杭州など各地航路開設向けた協議行った。その甲斐もあり、1920年大正9年3月日本郵船長崎上海定期航路開設発表した

※この「航路開設の背景」の解説は、「日華連絡船」の解説の一部です。
「航路開設の背景」を含む「日華連絡船」の記事については、「日華連絡船」の概要を参照ください。

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