航路開設の背景
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長崎港は1571年(元亀2年)、ポルトガル貿易港として開港以後、安政の開国まで外国貿易の玄関口として重要な役割を担っていた。 開国後も1867年(慶応3年)開設のパシフィック・メール・ライン(英語版)(太平洋郵船)の横浜~上海航路や、1875年(明治3年)に日本企業初の国際定期航路である三菱会社の横浜~上海航路の寄港地となった。 1884年(明治17年)には大阪商船が千馬町に、日本郵船が梅香崎町とそれぞれ長崎市内に支店を構えたほか、三井物産や喜久屋商会、ホーム・リンガー商会等が長崎発着の内外航路を運行していた。大正初期には日本郵船の横浜~上海、横浜~天津、横浜~豪州、香港~シアトル航路。大阪商船の北米、南米、欧州航路。東洋汽船の横浜~香港航路などの国際定期航路の寄港地となっていた。 しかし、明治後期以後横浜港、神戸港、門司港の追い上げや、特別輸出港に指定された口之津港、三角港、博多港の台頭で貿易不振に陥いり、その影響は港を抱える長崎の町にも及んでいた。また、前述の国際定期航路の寄港も単なる寄港地としての扱いで、長崎経済への恩恵は微々たるものであった。 この状況を重く見た長崎の商人からは、長崎港を起点とする外国航路を求める声が上がり、長崎商業会議所は1910年(明治43年)、後藤新平逓信大臣に対し「長崎ー上海を隔日一回、3,000トンクラスの旅客船2隻を運行。東京からの連絡手段として東京ー長崎に直通急行列車を運行させて、東京ー大阪ー長崎ー上海の所要時間を短縮する」といった内容の決議書を提出した。当時上海は中国最大の産業都市であり、仮に航路開設が実現すれば日本と上海を結ぶ幹線として、長崎はその中継地点として大いに発展するとの目論見があったとされる。 国への請願から8年後の1918年(大正7年)10月。長崎商業会議所は長崎県知事及び長崎市長に対し「長崎港を商港として発展させるべきで、日中親善や長崎の商業の発展のためにもその為にも上海航路の開設が急務である」といった内容の建議を提出し、改めて長崎と上海を結ぶ航路開設を請願した。 1920年(大正9年)1月には長崎市の高崎行一市長や市議会長、その他新聞社の幹部が「日支連絡船視察団」として中国を訪問し、上海や蘇州、南京、杭州など各地で航路開設に向けた協議を行った。その甲斐もあり、1920年(大正9年)3月、日本郵船は長崎~上海の定期航路開設を発表した。
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