臨時編纂部の設置
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1912年(明治45年)2月、御歌所長の高崎正風が薨去する。高崎の死を以って御製の漏洩は終わりを告げる。天皇の信頼を得て御製を漏洩できる人物は高崎の他にいないからである。 高崎正風の死から5か月後、明治天皇が崩御する。明治天皇の御製をまとめた御集の公刊を願う声が朝野で湧き起るが、大官や重臣の間には明治天皇が御製の発表を好んでいなかったという理由で公刊に躊躇する意向があった。特に皇太后が同意しないという噂が御歌所職員にも漏れ伝わっていた。 ある会が出版した御製集を目に留めた皇太后は、宮内大臣渡辺千秋を通じて御歌所長久我通久と寄人井上通泰に次のように注意する。「先帝陛下は御製の世に漏れるのをお好みにならなかった。たとい発表するにしても一応よく調べて見た上で無ければならぬ。世に漏れているものの中には古歌も交っているようである。実に畏れ多いことである。両人から一同によく注意するように」と。両人が調べると、その書物の材料がどこから出て誰が関与したのか判明する。御歌所員一同に厳重注意するとともに、御歌所で保管する御製の写しを収めた箱を全て封印する。 御歌所寄人井上通泰は皇太后からの注意を忖度し、皇太后は御集の発表を絶対に拒んでいるわけでなく、ただ調査や整理が済んでいないものを世に出すことを嫌っているのだと考え、あるとき元老山県有朋を訪ねてこの話をし、「なにとぞ風教のためにも御発表御公刊になるように御尽力を願いたい」と頼む。その後、時を経て山県は井上を呼び「ようやく御整理の勅許を得た。ただし御公刊の事はまだどうなるか分からぬ。とにかく臨時に一局を置かれることになったから足下〔井上〕がその主任になるように」と言う。井上は宮内大臣や宮内次官や御歌所長らと何度も協議し、臨時編纂部を設けることになる。御集の整理は御歌所寄人がその任に当たらなければならないが、臨時編纂部を御歌所と別の一局にすると何かと都合が悪いので、御歌所長が臨時編纂部長を兼ねることになる。 1916年(大正5年)10月、勅裁を経た宮内省令として臨時編纂部職制を定め、明治天皇の御製を編纂するため御歌所に臨時編纂部を置き、これに次の職員を置く。 部長は部務を統理し職員を監督し、編纂規程と功程を定める。御歌所長をこれに充てる。当時の御歌所長は入江為守である。 委員は御製編纂の事を分掌する。御歌所の寄人か参候の中から宮内大臣がこれを命じる。御歌所寄人の井上通泰、阪正臣、大口鯛二、千葉胤明、須川信行のほか、御歌所参候の東坊城徳長、長谷信成が命じられる。 幹事は部長の命を受け庶務を掌理する。御歌所主事をこれに充てる。幹事には近藤久敬が命じられる。近藤は宮内書記官筆頭であり、御歌所主事を兼任している。 書記は上司を命をうけ庶務に従事する。宮内判任官の中から宮内大臣がこれを命じる。書記を命じられた加藤義清と遠山英一は両人とも歌人出身の御歌所参候である。 以上の職員のほか、臨時編纂部に顧問を置き、宮内大臣の奏請によりこれを勅命する。顧問には山県有朋、徳大寺実則、黒田清綱が命じられる。臨時編纂部長は宮内大臣の認可を経て嘱託員を置く。嘱託員は4人おり、そのうち根本新之助と外山旦正は御歌所録事を兼ねる。 井上通泰は臨時編纂部長を委員長と呼ぶ。井上によると、委員長に就任した入江為守は極めて温厚な性格で、調和の才に富んでいた。委員の間に歌風・思想・主義の違いがあっても互いに感情的にならず平和円満に済んだのは入江委員長の調和のおかげであったという。 委員のうち東坊城徳長と長谷信成は公卿出身である。公卿出身委員の二人は早くから宮中の梅の間というところで御製の年代や題の整理を行っていた。歌人出身委員の井上通泰によると、公卿出身の委員は歌人出身委員と思想・主義が異なっていた。たとえば公卿出身委員のうち一人が井上に「仮名遣いは、公卿の仮名遣いにしますか、本居の仮名遣いにしますか」と聞いてきたことがあった。公家の仮名遣いとは定家仮名遣い、本居の仮名遣いとは歴史的仮名遣いのことである。学界一般では本居の仮名遣いを用いるが、明治維新の当初まで公卿の多くは定家仮名遣いを用いていた。この件は明治天皇の詠草が本居の仮名遣いであったのでそれに決まったという。
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