臨時航空術練習偵察観測班
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「下志津陸軍飛行学校」の記事における「臨時航空術練習偵察観測班」の解説
1918年(大正7年)7月、それまで日本に飛行機および関連器材を輸出していたフランス政府は、同国軍人によって飛行機製作とその使用に関する指導を日本で行う提案をした。日本陸軍首脳部はこれを歓迎し、フランス側の費用負担による航空教育軍事使節団(以下、「フランス航空団」と記述)派遣が決定した。同年12月、陸軍省はフランス航空団の指導の能率化を図るため臨時航空術練習委員を組織し、これを操縦班、射撃班、機体製作班、発動機製作班など8班に分け、準備に当たった。 1919年(大正8年)1月、ジャック=ポール・フォール(フランス語版)大佐を団長とするフランス航空団57名が来日した。当初、教育指導は所沢陸軍飛行場と岐阜県稲葉郡の各務原陸軍演習場でその大部分を行う予定であったが、フランス航空団の助言を取り入れ、個々の練習に適した場所があらためて選定された。臨時航空術練習委員のうち空中偵察、射撃観測、無線通信、写真等を教育する偵察観測班は砲兵との連携が重視されるため、千葉県印旛郡の陸軍野戦砲兵射撃学校とその近隣にある下志津陸軍演習場を利用して同年3月より教育指導を行った。
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