臨時脚気病調査会による確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)
「日本の脚気史」の記事における「臨時脚気病調査会による確定」の解説
1922年(大正11年)10月28日、秋の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミンに関するものであった。翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加わったもの」なのかに絞られていた。そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予算2万円のうち8千円が使われることになった。1924年(大正13年)4月8日の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定した。 1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であることから、翌1925年(大正14年)6月3日、いつもの通り陸軍省第一会議室で報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があった。その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時からの最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる(元委員がすべて参加)。 なお、16年間に委員として39名、臨時委員として13名が参加した調査会では、上述の通り第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となるなど、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたと位置づける見解がある一方、調査会のためにビタミン欠乏説の確定が遅れたとする見解もある。松田 (1990) は調査会のあり方を「国産の栄養説に対してあれほど『俗論』とさげすんだ彼らが、今度は外来の栄養説に対してはこれを肯定し、西欧のビタミン研究のあとを追うことになった」と指摘、「この調査会には、はじめから脚気の本当の病因を追及する意欲も能力もなかった」と総括している。
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