肥前国庁跡とは? わかりやすく解説

肥前国庁跡

名称: 肥前国庁跡
ふりがな ひぜんこくちょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 佐賀県
市区町村 佐賀市栄町
管理団体
指定年月日 1989.09.22(平成1.09.22)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 肥前国庁跡は、筑紫平野西部背振山地に源をもつ嘉瀬川形成した扇状地扇央付近に位置する。この地域は、古くから肥前国府の故地比定されていた所であり、発掘調査結果もそれを裏付けた
 佐賀県教育委員会は、昭和五十五十九年の一〇年間、この地の発掘調査実施して国庁跡規模内部構造をほぼ明らかにした。国庁域は築地〓(*1)で区画され、その規模築地外溝心々東西七七・二メートル南北一〇四・五メートルである。門は調査区の関係で、南門のみの検出であるが、築地内側折れた入門であったことが明らかとなっている。規模東西三間(六・九メートル)、南北二間四・五メートル)であり、二度建替認められ最初掘立柱建物であったのが、最後礎石建物変えられている。
 国庁域内発見され建物は、すべて掘立柱建物であり、南門前殿正殿後殿は、いずれも建物中軸線をそろえて南北配列されており、この中軸線国庁域の中軸ともなっている。さらに、前殿西側には、西妻をそろえた南・北二棟の脇殿検出されており、未確認ではあるが東側にも同様の建物配されていたことが予想できる。これは、正殿西側取りつく回廊についても同じである。
 前殿は、東西七間二〇・八六メートル)、南北二間五・四メートル)の東西棟で、一度建替がある。正殿は、東西九間(二五・〇六メートル)、南北四間一〇・八メートル)の四面廂付東西棟で、身舎東西二〇・八六メートル南北六・六メートル規模有し、廂の柱間二・一メートルとなっている。建物の西妻中央部から、単廊形式回廊が西に伸び西面築地取りついている回廊東西九間(二四・三メートル)、南北一間二・七メートル)の規模である。なお、正殿回廊には建替認められていない後殿は、東西七間二〇・八六メートル)、南北二間五・四メートル)の東西棟で、一度建替られている。この前面に目隠〓(*1)かと考えられる東西方向掘立柱柵列がある。前殿西側発見された二棟の脇殿は、いずれも東西二間南北七間南北棟で、一度ずつ建替られている。北側建物規模は、東西五・〇メートル南北一七・五メートルであり、南側東西五・三メートル南北一九・二メートルとなっている。
 遺物須恵器土師器などの土器類や屋瓦類大量に検出されている。土器類では七世紀後半代のものも若干出土しているが、八世紀代-特に後半代-のものが圧倒的に多く、九~十世紀代のものはそれほど多くはない。屋瓦類では、鴻臚館系のものが主流占めているのが注目される。このことは、国庁域内建物配置大宰府都府楼のそれに類似する現象と共に大宰府との関係を考えさせるからである。
 以上が国庁跡概要であるが、この他国庁周辺国府関遺跡推定される遺跡いくつか調査されている。第一は、国庁南門から南へ向かう道路であり、これは国庁域の南約六〇〇メートル東西に走る西海道に続く南大路と考えられるのであるまた、国庁域の西北四〇メートルの久池井六本杉遺跡では、基壇をもつ三棟の大型建物一群をなし、西北二〇メートルの惣座遺跡には倉庫群考えられる総柱建物群がある。さらに東北二〇メートルの久池井遺跡では、三棟の大型建物群が検出されている。このような遺構広がりは、国庁域を中心に東西四〇メートル南北四〇メートルとなっており、その解明今後残され課題である。
 肥前国庁跡は、わが国国庁跡の中では、発掘調査によってその内容明らかにされた少数例であり、周辺において国府関遺構多数発見されている極めて重要な遺跡である。よってここに本遺跡指定して、その保存図ろうとするものである




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