絹本著色千利休像
主名称: | 絹本著色千利休像 |
指定番号: | 1942 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1996.06.27(平成8.06.27) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 絵画 |
ト書: | 文禄四年九月春屋宗園の賛がある |
員数: | 1幅 |
時代区分: | 室町 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 千利休(一五二二-一五九一)の画像としてもっともよく知られているものである。画面上部には文禄四年(一五九五)九月十五日の春屋宗園【しゆんおくそうえん】の賛があり、宗園の語録『一黙稿』にも収録されているが、これによれば、本像は楽家初代の田中宗慶の依頼によって制作された遺像であることが明らかである。 本像を収める箱には「利休居士像 不審庵」という千宗旦の墨書があり、千家三代目の宗旦の代には千家の所蔵に帰している。『隔〓記【かくめいき】』によれば慶安元年(一六四八)に宗旦が催した茶会にすでに掛けられており、その時期をおおよそ知ることができる。なお、本像の制作を依頼した田中宗慶の孫である道入の通称「のんこう」は、宗旦が伊勢参宮の途中に能古茶屋にて竹花入れをつくって「ノムカウ」と命名して道入に贈ったのが気に入って座右に置いていたのにちなむといい、このような両者の関係に、本図が楽家から千家に譲られたいきさつの一端をうかがうことができる。 絵に落款はなく、筆者を確定するにはいたらないが、画風から長谷川等伯筆と考えられている。等伯(一五三九-一六一〇)はこの像が描かれた前年に宗園の頂相を描き(重要文化財 三玄院所有)、天正十七年(一五八九)には宗園の塔頭、三玄院の襖絵(重要文化財 現円徳院所有)を描くとともに、利休一族の寄進によってなった大徳寺山門上層の彩色をおこなっており、利休の画像を描くにふさわしい。 茶道を大成した千利休の画像として重要であるだけでなく、利休をとりまく諸芸に秀でた人びとの一端を知ることができる点でも貴重な画像といえるであろう。 |
絹本著色千利休像
主名称: | 絹本著色千利休像 |
指定番号: | 1946 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1996.06.27(平成8.06.27) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 絵画 |
ト書: | 天正十一年八月古溪宗陳の賛がある |
員数: | 1幅 |
時代区分: | 桃山 |
年代: | 1561 |
検索年代: | |
解説文: | 図の上部に「利休宗易禅人幻容」と題した大徳寺の僧、古渓宗陳【こけいそうちん】の賛があり、宗陳の語録である『蒲庵稿』にも収録されている。賛は天正十一年(一五八三)八月下旬に描かれており、本図は千利休(一五二一-一五九一)の生前の姿を描いた画像として貴重である。天正元年に宗陳が大徳寺住持になった際、利休は抜群の百貫文を寄進するほど二人の結びつきには強いものがあった。 著賛【ちやくさん】時に利休は六十三歳であったことになる。前年に織田信長が没し、この年四月に柴田勝家が滅んでまさに秀吉が天下人になった時期にあたる。この年七月の大坂城での最初の茶会に利休は宗及とともに出仕している。 「利休」の号は天正十三年の禁中茶会のおりに勅許されたとするのが一般的であるが、不審庵本に賛を書いた春屋宗園の語録である『一黙稿』には、それより先に宗園、宗陳の師である大林宗套【だいりんそうとう】(永禄十一年=一五六八没)が利休号を授けたという。本賛の冒頭にはすでに「利休」の号が明記されており、後者の説を支持する史料でもある。 遺像である不審庵本の穏やかな表情とは対照的な、鋭い目つきの精悍な表情の描写には見るべきものがあり、桃山時代の著名人のすぐれた肖像として注目される。 |
重要文化財のほかの用語一覧
絵画: | 絹本著色十界勧請大曼荼羅図 絹本著色十界図 絹本著色千利休像 絹本著色千利休像 絹本著色千山万水図 絹本著色千手千眼観音像 絹本著色千手千眼観音像 |
- 絹本著色千利休像のページへのリンク