統一後の戦い
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「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「統一後の戦い」の解説
南北戦争勃発に際し、ガリバルディはアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンより、自由主義を奉じる北軍の司令官に加わるよう依頼された。ガリバルディは「奴隷の即時解放」を条件に了承したが、開戦初期の時点では農業問題から北部もまた奴隷解放には慎重な姿勢を取っており、リンカーンはガリバルディへの司令官打診を断念した。1864年、かつて立ち寄ったイギリスを再訪し、ロンドンで再び民衆からの歓迎を受けた。次いでイギリスの宰相パーマストン卿ヘンリー・ジョン・テンプルと会談した際、バルカン半島諸国で独立運動を展開する運動家たちを紹介され、彼らを激励すると共に支援を行うための組織結成を模索した。かつての同志マッツィーニの青年ヨーロッパにも通ずる動きだったが、実現までには至らなかった。 1866年、ガリバルディはまたも立ち上がった。ただしこのときはイタリア政府の全面的な支援があった。普墺戦争が勃発し、オーストリアからヴェネツィアを奪回すべくイタリアもプロイセンの同盟国として参戦したからである(第三次イタリア独立戦争)。ガリバルディは再び“アルプス猟兵隊”を招集する(このときは40000人もの大軍だった)。猟兵隊を引き連れチロルへと進軍したガリバルディは、ベッツェッカの戦いにおいてオーストリア軍を撃破し、トレント近郊に迫った。しかし更なる進撃を準備してオーストリア軍の城砦を占拠している時、王国正規軍はクストーザの戦いとリッサ海戦に敗れ、戦線建て直しのために後退するように命じられた。ガリバルディは一言「Obbedisco」(従う)とだけ電文を返して、軍を引き返したという。戦争は北部戦線におけるプロイセン軍の攻勢によって終了し、戦勝国としてヴェネツィア回収に成功した。 1870年、普仏戦争が勃発するとフランス軍はローマから撤退した。これに乗じたイタリア軍はローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ここにイタリアの統一は完成する。これに先駆ける形でガリバルディはローマ教皇位の廃止を含めて、領土を私物化するカトリック教会に辛辣な批判をジュネーヴで行っている。 また普仏戦争中、フランス第二帝政が崩壊したことをきっかけに、ガリバルディは新たに成立したフランス第三共和制を自由主義の観点から支援し、プロイセン軍に対するイタリア人義勇兵を率いて戦った。イタリア国民の多くと同じく、長年の反仏感情を持つガリバルディは民衆に「私は今までナポレオンの軍を倒せと言ってきたが、今はこう言うべきだろう。フランスの自由を救おう」と演説した。ガリバルディの声の元にイタリア各地から義勇兵が集まり、更にアメリカ、スペイン、イギリス、ポーランドからも義勇兵がガリバルディの元に集った。彼らは両軍から「ヴォージュ軍」と呼ばれ、プロイセン軍を寡兵にて破って精強な外人部隊と評価された。ヴォージュ軍は苦戦を強いられながらも奮戦した。この縁から、後にフランス外人部隊にガリバルディ家の末裔が指揮するイタリア人義勇兵旅団「ガリバルディ」が結成され、第一次世界大戦で戦果を挙げている。
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