統一後の戦いとは? わかりやすく解説

統一後の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:22 UTC 版)

ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「統一後の戦い」の解説

南北戦争勃発際しガリバルディアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンより、自由主義奉じる北軍司令官に加わるよう依頼された。ガリバルディは「奴隷即時解放」を条件了承したが、開戦初期時点では農業問題から北部もまた奴隷解放には慎重な姿勢取っており、リンカーンガリバルディへの司令官打診断念した1864年、かつて立ち寄ったイギリス再訪し、ロンドンで再び民衆からの歓迎受けた次いでイギリス宰相パーマストン卿ヘンリー・ジョン・テンプルと会談した際、バルカン半島諸国独立運動展開する運動家たちを紹介され、彼らを激励すると共に支援を行うための組織結成模索した。かつての同志マッツィーニ青年ヨーロッパにも通ず動きだったが、実現までには至らなかった。 1866年ガリバルディはまたも立ち上がった。ただしこのときはイタリア政府全面的な支援があった。普墺戦争勃発しオーストリアからヴェネツィア奪回すべくイタリアプロイセン同盟国として参戦したからである(第三次イタリア独立戦争)。ガリバルディは再び“アルプス猟兵隊”を招集する(このときは40000人もの大軍だった)。猟兵隊を引き連れチロルへと進軍したガリバルディは、ベッツェッカの戦いにおいてオーストリア軍撃破しトレント近郊迫った。しかし更なる進撃準備してオーストリア軍城砦占拠している時、王国正規軍クストーザの戦いリッサ海戦敗れ戦線建て直しのために後退するように命じられた。ガリバルディ一言「Obbedisco」(従う)とだけ電文返して、軍を引き返したという。戦争北部戦線におけるプロイセン軍攻勢によって終了し戦勝国としてヴェネツィア回収成功した1870年普仏戦争勃発するフランス軍ローマから撤退した。これに乗じたイタリア軍ローマ中心とした教皇領奪回成功し、ここにイタリアの統一完成する。これに先駆ける形でガリバルディローマ教皇位の廃止含めて領土私物化するカトリック教会辛辣な批判ジュネーヴ行っている。 また普仏戦争中、フランス第二帝政崩壊したことをきっかけに、ガリバルディ新たに成立したフランス第三共和制自由主義観点から支援しプロイセン軍対すイタリア人義勇兵率いて戦ったイタリア国民の多く同じく長年の反仏感情を持つガリバルディ民衆に「私は今までナポレオンの軍を倒せと言ってきたが、今はこう言うきだろうフランスの自由を救おう」と演説したガリバルディの声の元にイタリア各地から義勇兵集まり、更にアメリカスペインイギリスポーランドからも義勇兵ガリバルディ元に集った。彼らは両軍から「ヴォージュ軍」と呼ばれプロイセン軍寡兵にて破って精強外人部隊評価された。ヴォージュ軍は苦戦強いられながらも奮戦した。この縁から、後にフランス外人部隊ガリバルディ家の末裔指揮するイタリア人義勇兵旅団ガリバルディ」が結成され第一次世界大戦戦果挙げている。

※この「統一後の戦い」の解説は、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の解説の一部です。
「統一後の戦い」を含む「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事については、「ジュゼッペ・ガリバルディ」の概要を参照ください。

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