統一形の制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:11 UTC 版)
大日本武徳会剣術形 1906年(明治39年)、渡辺昇を主任とする7名の範士によって制定されたがあまり普及せず、後に大日本帝国剣道形が制定される。 大日本帝国剣道形 1912年(大正元年)、全国から選抜された25名の剣道家による約1年間の議論を経て制定された。 弓道射形 1933年(昭和8年)5月の全国範士・教士会の要請により弓道家27名によって「弓道形調査委員会」が構成され、同年11月10日から3日間にわたり京都旧武徳殿で議論制定された。 大日本武徳会柔術形(後に「大日本武徳会柔道形」と改称) 1906年(明治39年)7月、京都大日本武徳会本部にて、講道館の嘉納治五郎委員長と戸塚派揚心流の戸塚英美委員、四天流組討の星野九門委員、他17名の委員補(双水執流組討腰之廻第14代青柳喜平、不遷流4代田辺又右衛門など)柔術10流・師範20名で構成される「日本武徳会柔術形制定委員会」によって1週間で制定された。その内容は1908年(明治41年)に便利堂書店から『大日本武德會制定柔術形』として出版される。のちの講道館柔道形の一部となっているが、本来は講道館柔道を含む全柔術流派を統合する形であった。
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