統一後の栄進とは? わかりやすく解説

統一後の栄進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:25 UTC 版)

衛瓘」の記事における「統一後の栄進」の解説

晋が呉を滅ぼした後の283年には、衛瓘三公一つである司空昇進した衛瓘政治は清簡であったので、大い天下名声得た司馬炎勅命下し衛瓘の四男の衛宣に繁昌公主司馬炎の娘)を嫁がせた。衛瓘は自らが諸生に過ぎないからこれ固辞しようとしたが、認められなかった。さらに、太子少傅加えられ、千兵と百騎と鼓吹加えられた。衛瓘日蝕理由太尉司馬亮司徒魏舒と共に官位降りようとしたが、認められなかった。 衛瓘魏の時代制定した九品官人中正)法について否定的な意見示している。この法はあくまで混乱期政権安定させるための暫定的な制度であり、これが続くと貴族門閥化を促進するのであるから、これを廃止して郷里での選挙による人材確保復活させるべきであると主張し太尉司馬亮と共に上疏した。司馬炎はこの意見理解示していたが、制度改められる事はなかった。 当時皇太子立てられていたのは司馬炎嫡子である司馬衷であったが、衛瓘従前よりその暗愚さから司馬衷素質疑問視しており、ある日宴席にて衛瓘酔った勢いで帝の御前跪くと、帝の椅子撫でながら「この座は惜しまれるべきでございます」と暗に司馬衷廃嫡勧めた司馬炎はその意図悟ったものの、とぼけたふりをして「公は本当に大酔しておるな」と述べるに留め衛瓘それ以上何も口にしなかった。しかし司馬衷の妃であった賈南風は、この一件以来衛瓘怨むようになった。また衛瓘司馬衷嫡子であり皇太孫であった司馬遹に関しても、和嶠と共に皇太孫聡明ではあるが、軽薄な性質案じられる」と常々吹聴していた。 武帝治世晩年は、皇后である楊芷の父であった臨晋楊駿外戚として権勢振るっていた。290年1月衛瓘の四男の衛宣は司馬炎の娘の繁昌公主中国語版)を娶ったが、楊駿かねてより疎ましく思っていた衛瓘失脚させるべく宦官らと共謀し酒癖悪さ理由に衛宣を弾劾し繁昌公主離婚させた。これに危機感抱いた衛瓘老齢理由政務離れる事を請い名誉職である太保への昇進認められ自身邸宅へと身を戻した司馬炎は後に、宦官が衛宣の過失過剰に申し立てていたことを知ると、繁昌公主と衛宣を復縁させよう考えたが、衛宣はこの一件病んでしまい既に亡くなっていた。

※この「統一後の栄進」の解説は、「衛瓘」の解説の一部です。
「統一後の栄進」を含む「衛瓘」の記事については、「衛瓘」の概要を参照ください。

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