統一後の栄進
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晋が呉を滅ぼした後の283年には、衛瓘は三公の一つである司空に昇進した。衛瓘の政治は清簡であったので、大いに天下の名声を得た。司馬炎は勅命を下し、衛瓘の四男の衛宣に繁昌公主(司馬炎の娘)を嫁がせた。衛瓘は自らが諸生に過ぎない事からこれを固辞しようとしたが、認められなかった。さらに、太子少傅を加えられ、千兵と百騎と鼓吹を加えられた。衛瓘は日蝕を理由に太尉司馬亮・司徒魏舒と共に官位を降りようとしたが、認められなかった。 衛瓘は魏の時代に制定した九品官人(中正)法について否定的な意見を示している。この法はあくまで混乱期に政権を安定させるための暫定的な制度であり、これが続くと貴族の門閥化を促進するものであるから、これを廃止して郷里での選挙による人材確保を復活させるべきであると主張し、太尉司馬亮らと共に上疏した。司馬炎はこの意見に理解を示していたが、制度が改められる事はなかった。 当時皇太子に立てられていたのは司馬炎の嫡子である司馬衷であったが、衛瓘は従前よりその暗愚さから司馬衷の素質を疑問視しており、ある日の宴席にて衛瓘は酔った勢いで帝の御前に跪くと、帝の椅子を撫でながら「この座は惜しまれるべきでございます」と暗に司馬衷の廃嫡を勧めた。司馬炎はその意図を悟ったものの、とぼけたふりをして「公は本当に大酔しておるな」と述べるに留め、衛瓘もそれ以上何も口にしなかった。しかし司馬衷の妃であった賈南風は、この一件以来衛瓘を怨むようになった。また衛瓘は司馬衷の嫡子であり皇太孫であった司馬遹に関しても、和嶠と共に「皇太孫は聡明ではあるが、軽薄な性質が案じられる」と常々吹聴していた。 武帝の治世の晩年は、皇后である楊芷の父であった臨晋侯楊駿が外戚として権勢を振るっていた。290年1月、衛瓘の四男の衛宣は司馬炎の娘の繁昌公主(中国語版)を娶ったが、楊駿はかねてより疎ましく思っていた衛瓘を失脚させるべく宦官らと共謀し、酒癖の悪さを理由に衛宣を弾劾して繁昌公主と離婚させた。これに危機感を抱いた衛瓘は老齢を理由に政務を離れる事を請い、名誉職である太保への昇進を認められて自身の邸宅へと身を戻した。司馬炎は後に、宦官が衛宣の過失を過剰に申し立てていたことを知ると、繁昌公主と衛宣を復縁させようと考えたが、衛宣はこの一件で病んでしまい既に亡くなっていた。
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