大日本武徳会剣術形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 06:07 UTC 版)
明治時代後期に、大日本武徳会は剣術の普及発展を図るため、流派を超越した共通の形を制定することを決定し、明治39年(1906年)7月、渡辺昇を主任とする7名を委員に任じた。 委員 太字は主任 氏名称号流派府県渡辺昇 範士 神道無念流 東京府 柴江運八郎 範士 神道無念流 長崎県 三橋鑑一郎 範士 武蔵流 京都府 得能関四郎 範士 直心影流 東京府 坂部大作 範士 鏡心明智流 愛知県 根岸信五郎 範士 神道無念流 東京府 阿部守衛 範士 直心影流 岡山県 渡辺昇が案を作り、他の委員と数回の検討が行なわれた。同年8月13日に大日本武徳会会長大浦兼武に答申し、総裁小松宮彰仁親王の決裁を得て、同年12月下旬に「大日本武徳会剣術形」として発表された。天・地・人(上段・中段・下段)の3本の形であった。しかし、委員は社会的地位の高い渡辺に遠慮があり、議論が不十分のまま決定されたという。その結果、満足しない者が多く、この形はあまり普及しなかった。
※この「大日本武徳会剣術形」の解説は、「日本剣道形」の解説の一部です。
「大日本武徳会剣術形」を含む「日本剣道形」の記事については、「日本剣道形」の概要を参照ください。
- 大日本武徳会剣術形のページへのリンク