大日本武徳会本部時代
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明治40年(1907年)、内藤の招きで京都の大日本武徳会本部教授に就任。「技の門奈、気の内藤」と並び称され、大日本武徳会の双璧をなす。 明治44年(1911年)、剣道形制定のため全国から25名の剣道家が選抜され、委員会が発足した。門奈はそのうち5名の主査の一人に抜擢された。約1年間の討論を経て、大正元年(1912年)に大日本帝国剣道形を発表した。 大正2年(1913年)、大日本武徳会から範士号を授与された。範士は60歳以上との決まりがあったが、門奈正(59歳)、内藤高治(52歳)、高野佐三郎(52歳)は特例での授与となった。 大正8年(1919年)、37歳年下の女性と恋仲になったことで、大日本武徳会本部を解任された。女性の名は愛子といい、元祇園の芸妓であったといわれる。解任されるほど問題のあることであったのかは分からないが、この年大日本武徳会副会長兼武術専門学校校長に就任した西久保弘道が綱紀粛正に力を入れていたことも影響したのではないかと考えられている。 本部を解任された門奈は愛知支部教授となり名古屋に移住した。名古屋武徳殿で指導し、第八高等学校等でも師範を務めるなど剣道を続けたが、剣道家との個人的な交際は拒絶して、愛子と隠棲した。愛子は門奈失脚の原因となった女性として世間の好奇の目に晒されたが、門奈の傍らにあってよく仕えた。
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