大日本炭砿の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 10:07 UTC 版)
炭鉱業において三井と提携して時間的にも資金的にも余裕を得た古賀は、長崎以外への進出を図る。まず1914年(大正3年)、常磐炭田の高萩・秋山鉱区(茨城県)を買収して茨城炭砿を設立。1916年(大正5年)には山本条太郎の勧誘で本山炭砿を設立して社長となり、山口県宇部の炭鉱を経営し始める。翌1917年(大正6年)2月には常磐炭田の磯原鉱区を買収し磯原炭砿を設立、5月これと茨城炭砿を統合、7月さらに本山炭砿と合併させて大日本炭砿株式会社とした。12月には常磐の三星炭砿を合併し、他に平鉱区(福島県)も買収した。1918年(大正7年)2月、大日本炭砿は増資により資本金1,000万円の会社となり、9月には東海炭砿を合併して常磐炭田での勢力をさらに拡大している。 松島炭鉱でも1917年から1918年にかけて第一次世界大戦中の好景気を背景に好業績を記録したが、大戦終結後は急速に業績を悪化させ1922年(大正11年)より無配に転落した。大日本炭砿も同様で、一足先に1920年(大正9年)には無配となった。このため拡大を続けてきた大日本炭砿の事業は縮小へと転じ、1921年(大正10年)に常磐平鉱区と山口の本山炭鉱を休山。次いで三井鉱山・三井物産に対し債務整理のため常磐湯本・平鉱区を譲渡した。こうした炭鉱事業の不振により、多額の融資を行っていた古賀家の古賀銀行は先行き不透明と見られたことによって発生した取り付け騒ぎに巻き込まれ1926年(大正15年)5月に休業し、そのまま再開することなく1933年(昭和8年)に解散してしまった。 1929年(昭和4年)6月25日、長崎松島炭鉱で第三坑が水没し副坑長以下42名が死亡する事故が発生した。翌7月20日、古賀は松島炭鉱株式会社の会長を辞任している。一方、社長に留まっていた大日本炭砿は1938年(昭和13年)に南俊二・菊池寛実らと提携し増資を行ったことでようやく1割の配当を復活した。2年後の1940年(昭和15年)、古賀は会社を日東鉱業汽船の竹中治・岩川与助に譲渡して大日本炭砿から退いた。 大日本炭砿撤退後は中小炭鉱のために活動し、1940年8月常磐石炭株式会社社長となり、翌年には東京・仙台の石炭統制組合理事長に推されて太平洋戦争中から戦後にかけて石炭増産に尽力した。1948年(昭和23年)に病気のため常磐石炭社長職を専務に譲って会長となるが、それも翌年に辞任している。その後は菊池寛実に迎えられて茨城県高萩市の望海炭鉱株式会社の社長となった。そして高萩で余生を過ごし、1951年(昭和26年)8月4日に死去した。満68歳没。
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