終戦 ~ 最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:36 UTC 版)
日本軍の戦局が悪化していく1945年5月1日、醍醐は第六艦隊司令長官として海軍の指揮を取るが、同年8月15日正午に終戦を迎えた。終戦後も同年9月15日に旧海軍軍令部へ出仕され、同年9月25日に予備役へ編入された。第六艦隊司令長官として終戦を迎えた醍醐は、艦隊で保管していた約5万円の機密費の使途について検討した結果、1946年から部下などの手や郵送によって、醍醐の弔辞・香料と共に終戦まで出撃していった回天特別攻撃隊員の霊前に捧げられた。 同年12月、オランダ当局によってポンティアナック事件の容疑者として戦犯指名され、日本国内で逮捕、巣鴨刑務所へ収監された。醍醐は1943年から1年弱に渡って、第22特別根拠地隊司令官としてボルネオ・バリックパパンに滞在していたが、現地の華僑が抗日陰謀として日本陸海軍部隊が壊滅危機に陥ったため、自軍の安全維持のために処理作戦を行っていた。これが戦後になって大々的に報じられ、日本軍のトップである司令長官を務めていた醍醐が戦犯とされた。 その後、1947年にインドネシアへ身柄が移され、同年9月22日に最終裁判が行われた。その結果、同年10月3日に死刑判決が言い渡された。醍醐は自身に有利な事実があっても、他に危害が及ぶ資料を取り上げることを全て拒否して、最小限度の犠牲によって事態の解決を試みたが、最終的には死刑判決となった。死刑判決が言い渡されたあと、醍醐はポンティアナック監獄へ収容された。そして同年12月4日、2日後の死刑執行を通達された際に以下のような遺書を残している。 皆様長い事御世話になりまして有難う。九月二十二日約三時間の裁判あり、十月三日約五分間で判決、死刑の宣告を受け、十二月六日午前八時死刑執行の旨、昨十二月四日午前申渡されました。別段心の乱れることもなく、案外平常と異ならず誠に有難く思っております。嘆願書誠に有難う。感涙にむせび拝読しました。(中略)何卒日本再建の各自の使命に全力を注がれ度し、私も霊界より又何遍も生れかはり、日本再建に全力を注ぐつもりです。私の部下の戦死者遺族達の事も心に留められ度し。 同年12月6日午前7時過ぎ、醍醐は目隠しを拒否し、黒色の洋服を着用した上で羅沙の帽子を被り、刑場にて君が代を声高らかに歌った後に「天皇陛下万歳」を三唱した。そして同日午前8時、12名の銃手によって一斉に射撃が行われ、執行された。享年56。靖国神社内にある遊就館には、醍醐の遺品である海軍の軍帽が展示されている。
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