紡績と鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:44 UTC 版)
重太郎の洋反物商と関係の深い事業として、1882年に設立された大阪紡績がある。渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎らの東京資本と華族資本による紡績会社計画と、松本重太郎、藤田伝三郎らによる紡績会社計画が合体したものだった。95人の株主のうち56人が大阪商人で、払込資本構成でも大阪商人の出資比率が31%を占め、松本、藤田の斡旋で大阪に立地が決まり、創立後は藤田伝三郎が初代頭取に、松本が取締役に、また小室信夫の経営する縮緬問屋の番頭蒲田清蔵が商務支配人に就任するなど大阪側の役割が大きかった。その後も大阪商人の持株比率が高くなり、重太郎は1887年1月に頭取となり、1898年1月までその職にあった。1884年には、もと政府の紡績機械貸し下げによって成立した渋谷紡績所の経営が不振となり、これを渋谷庄三郎から買い取り、これを堂島紡績所とした。1895年1月には紡績・織布兼業の日本紡織を設立して社長となり、翌年堂島紡績所を吸収合併した。さらに1896年には輸入織物のうち最も需要の多かったモスリンの国産自給を企て、稲畑勝太郎はじめ大阪の舶来物品商とともに毛斯綸紡織を創設、社長となった。そのほか、京都製糸、内外綿、大阪毛糸などの設立にも関係し、設立後はその重役となった。 鉄道は重太郎のもうひとつの柱となる事業分野であった。1884年、重太郎は藤田伝三郎、田中市兵衛らとともに、事実上日本で初めての私鉄として阪堺鉄道を設立した。同鉄道の経営は順調で、高収益をあげたため、さらに重太郎は堺から和歌山まで36マイルの鉄道敷設を計画し1895年南海鉄道を設立、その社長となった。南海鉄道は1898年に阪堺鉄道を吸収合併、ここに難波、和歌山をつなぐ鉄道が完成した。1886年、重太郎らが発起人となって成立した山陽鉄道は1892年までに神戸、三原間の敷設を完了したが、1890年不況の影響で不振となり、工事がストップしたまま、社長の中上川彦次郎が辞任してしまった。1892年社長の就任した重太郎は借入金と社債発行により資金調達の道をつけ、三原、広島間の敷設を1894年までに完成させ、日清戦争期の軍需輸送に貢献した。その後、1898年以降山陽鉄道は三田尻から下関まで軌道を延ばし、関門連絡船を介して九州鉄道との連絡を実現した。そのほか浪速鉄道、阪鶴鉄道、七尾鉄道、豊州鉄道(のちの九州鉄道)、讃岐鉄道などの鉄道にも関係し、重太郎は西日本の鉄道網形成に大きく寄与した。太湖汽船、内国海運、大阪運河会社など海運関係にもかかわりをもった。 その他の事業としては、日本精糖、大阪アルカリ、大阪麦酒、日本火災保険、日本教育生命保険、明治炭坑など多くの会社の設立ないし経営に参画した。1898年の資料では26社の役員を務め、渋沢栄一の29社に次ぐ数だった。
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