紅宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/29 16:29 UTC 版)
白宮の西側に隣接して建てられている紅宮は、宗教的な領域である。ここはチベット仏教の総師ダライ・ラマが「祭司王」としての権威を発揮する場であったといえる。白宮と同じく、外壁全体が赤く塗られているため紅宮と呼ばれた。ここは日常的な機能をほとんどもたない聖空間であると同時に、政権にとって最も重要な象徴性を帯びた場所である。最下層には位置的に紅宮の中心を占める大集会場があり、この上部の吹き抜けを囲む回廊を介して他の各室が並んでいる。この集会室の西側に面して3層吹き抜けで設けられているのが霊塔殿である。ここには多くの仏塔(チョルテン)が納められているが、なかでも一番豪華なのは、1690年に造られた、高さ15mにもおよぶダライ・ラマ5世の霊塔である。霊塔は、3724㎏(霊塔を含む)もの金箔、1500個にも及ぶダイヤモンド、さらには翡翠、瑪瑙など貴重な宝石類で装飾され、塔座には、各種宝器、祭器などが置かれている。この霊廟の奉祀が紅宮の建立の目的といわれる。ダライ・ラマの霊塔殿の横には、面積約700㎡の西大殿(ツォク・チェンヌ)がある。内部には、全部で700枚を超える壁画が描かれており、いずれも当時のチベットの風物や人々の生活をリアルに描いたものである。 ダライ・ラマを主としていただくチベット政府「ガンデンポタン」は、1642年、グシ・ハンよりラサをはじめとするチベットの中枢地帯の寄進を受けて発足したが、その当初はダライ・ラマが座主をつとめるデプン寺の兜卒宮(ガンデンポタン)に拠点を置いていた。ダライ・ラマがポタラに常駐するようになったのは1659年からである。このころまでに白宮の主要部が完成したそうだが、紅宮の建設はダライ・ラマ5世が没した82年からであり、完成したのは95年と言われる。この間のポタラ宮の姿は61年にラサを訪れたオーストリア人神父のスケッチにより描かれているが、やはりそこには白宮しか描かれておらず、紅宮が後にデザインされたものであることが裏付けられる。その後、歴代のダライ・ラマの霊塔が建てられたが、政治的に利用されて不遇の人生を送った後、青海に客死した6世のものだけが存在していない。近年では、1930年代に13世の霊塔を納めるため、紅宮西側の増築が行われている。ダライ・ラマ13世は、清国滅亡の後、独立宣言を発したのを機にラサの西郊に新たにノルブリンカ宮を建て、夏はノルブリンカ、冬はポタラ宮を政府の所在地として併用した。 ポタラ宮の地下には「サソリ牢」があり、罪人(そのほとんどは反抗した農奴や奴隷)が毒サソリによって殺されていた。 1950年代に勃発したチベット動乱が1959年中央チベットに波及し、同年3月、ガンデンポタンはダライ・ラマとともにインドへ脱出、ポタラ宮は主を失った。同年、「西蔵地方政府」(ガンデンポタンに対する中国政府の呼称)の廃止を宣言した中国政府はポタラ宮を接収し、現在は博物館として使用されている。 現在はポタラ宮内部は白宮はごく一部の部屋以外は原則的に非公開、紅宮は歴代ダライ・ラマの玉座や霊塔などが公開されている。屋上にも登ることができる。冬季閑散期を除き入場は見学希望日の前日に予約券を入手する必要があるが、夏季最盛期は中国人観光客が激増していることもあり、個人観光客が予約券を手に入れるためには、深夜のうちから予約券発行所に並ぶ必要があるなど、入手は困難になっている。また、外国人の場合パスポートを提示する必要がある。団体入場者は見学時間が1時間以内に制限されている。2008年1月現在入場料はチベット族が1元。漢民族などチベット族以外の民族や外国人は100元となっている。 1994年、周辺の遺跡と合わせてラサのポタラ宮の歴史的遺跡群として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)として登録。2000年にジョカン(トゥルナン寺・大昭寺)が拡大登録。2001年にノルブリンカが拡大登録された。
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