紀伝博士の設置と統合とは? わかりやすく解説

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紀伝博士の設置と統合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 19:46 UTC 版)

紀伝道」の記事における「紀伝博士の設置と統合」の解説

その後中国正史知識公文書作成や一種の政治学として重んじられたこともあり、歴史を学ぶために文章科(文章道)を希望する者の後が絶たず、本来の文章博士専門とする文学講義滞るようになったこのため大同3年2月4日808年3月4日)に再度明経直講より1名を割いて独立した官として紀伝博士きでんはかせ正七位下相当)が設置され、その下に学生として紀伝得業生(きでんとくごうしょう)及び紀伝生(きでんのしょう)が置かれのである。これが通称としての「紀伝道」の成立である(ただし、『皇代記』には延暦24年805年6月に「紀伝儒者始」があったと記されており、紀伝博士成立以前紀伝担当する専門教員置かれていた可能性がある)。紀伝道では中国正史や『文選』などの講義が行われていた。ところが、律令政治変質とともに貴族官人社会において求められるのは、実務文章作成能力よりも漢詩などの文学文章作成能力に移るようになっていった。特に嵯峨天皇文学重んじて凌雲集』・『経国集』・『文華秀麗集』の三勅撰漢詩集編纂され、漢詩作成のために必要な漢文学教育基礎中国正史由来史学教育求めたこのため弘仁12年821年)には文章博士相当官位を従五位下引き上げられた。これは博士の中で筆頭とされた明経博士よりも上位あり、か博士唯一の貴族当の位階であったこのような情勢の中で、弘仁11年11月15日820年12月23日)の太政官符では、従来方針一転して良家公卿子弟」のみに限定する規定定められた。これは両科統合後天長4年827年文章博士都腹赤の上奏(『本朝文粋』、ただし腹赤2年前に没しており、生前行われたものか)によって撤廃されたものの、貴族子弟文章生採用事実上認められたために白丁文章生貴族文章生によって圧迫を受けるようになり、本来は正規外に中下身分からの人材登用役目担っていた紀伝文章生貴族子弟によって独占されて、文章博士以下の世襲進行するきっかけとなったまた、紀伝道求められるものも、天皇公卿からも強い関心抱かれていた漢詩などの文学材料としての歴史的知識に移るようになっていった。このため紀伝道文章道違い次第曖昧になっていった承和元年3月8日834年4月20日)に紀伝道文章道「道」呼称未だ成立していなかったとする見解を採るならば、紀伝科と文章科)は統合されることとされた。

※この「紀伝博士の設置と統合」の解説は、「紀伝道」の解説の一部です。
「紀伝博士の設置と統合」を含む「紀伝道」の記事については、「紀伝道」の概要を参照ください。

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