紀伝博士の設置と統合
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その後、中国正史の知識が公文書作成や一種の政治学として重んじられたこともあり、歴史を学ぶために文章科(文章道)を希望する者の後が絶たず、本来の文章博士が専門とする文学の講義が滞るようになった。このため、大同3年2月4日(808年3月4日)に再度明経直講より1名を割いて独立した官として紀伝博士(きでんはかせ、正七位下相当)が設置され、その下に学生として紀伝得業生(きでんとくごうしょう)及び紀伝生(きでんのしょう)が置かれたのである。これが通称としての「紀伝道」の成立である(ただし、『皇代記』には延暦24年(805年)6月に「紀伝儒者始」があったと記されており、紀伝博士成立以前に紀伝を担当する専門教員が置かれていた可能性がある)。紀伝道では中国正史や『文選』などの講義が行われていた。ところが、律令政治の変質とともに貴族・官人社会において求められるのは、実務文章の作成能力よりも漢詩などの文学文章の作成能力に移るようになっていった。特に嵯峨天皇は文学を重んじて『凌雲集』・『経国集』・『文華秀麗集』の三勅撰漢詩集が編纂され、漢詩作成のために必要な漢文学教育の基礎を中国正史由来の史学教育に求めた。このため、弘仁12年(821年)には文章博士は相当官位を従五位下に引き上げられた。これは博士の中で筆頭とされた明経博士よりも上位であり、かつ博士中唯一の貴族相当の位階であった。このような情勢の中で、弘仁11年11月15日(820年12月23日)の太政官符では、従来の方針を一転して「良家(公卿)子弟」のみに限定する規定が定められた。これは両科統合後の天長4年(827年)文章博士都腹赤の上奏(『本朝文粋』、ただし腹赤は2年前に没しており、生前に行われたものか)によって撤廃されたものの、貴族子弟の文章生採用が事実上認められたために白丁文章生は貴族文章生によって圧迫を受けるようになり、本来は正規外に中下級身分からの人材登用の役目を担っていた紀伝・文章生が貴族子弟によって独占されて、文章博士以下の世襲が進行するきっかけとなった。また、紀伝道に求められるものも、天皇や公卿からも強い関心を抱かれていた漢詩などの文学の材料としての歴史的知識に移るようになっていった。このため、紀伝道と文章道の違いが次第に曖昧になっていった。承和元年3月8日(834年4月20日)に紀伝道と文章道(「道」の呼称が未だ成立していなかったとする見解を採るならば、紀伝科と文章科)は統合されることとされた。
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