紀伝道・文章博士における地位の向上
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紀伝道の統合期に活躍した文章博士である菅原清公は大学頭を兼務してその発展に貢献し、大学寮の北側に文章院という学舎を設置した。後に菅原氏は清公・是善・道真・淳茂の4代の文章博士を輩出し、文章院は大学直曹(公認寄宿舎)としての地位を得るに至った(これに対抗するために設置されたのが大学別曹と言われている)。教科書としては歴史からは「三史」と呼ばれた『史記』・『漢書』・『後漢書』と文学からは『文選』を中心として、『三国志』・『晋書』・『爾雅』などが用いられていた。また、後に講日本紀(『日本書紀』の講義)に文章博士や紀伝学生(文章生)も関わっている(特に元慶講日本紀を受講して後に「日本書紀私記」をまとめたとされる矢田部名実(擬文章生、後に大内記)などは良く知られている)ことや国史編纂に関与した撰国史所の職員に紀伝学生が加わっていることから、『日本書紀』以下の「六国史」に関する講義も行われていたと考えられている。 貞観年間までに文章博士2名、文章生20名(うち文章得業生2名)、擬文章生20名(文章生の予備生)という構成となり、それでも学問が成就して文章博士になれば貴族に達するために志願者数が絶えず、そのために試験制度が導入され、まず大学寮の寮試にて中国正史より問題を出題して擬文章生を選抜した。続いて擬文章生及び蔭位の対象者、宣旨などで特に許された者に対して式部省が直接行う省試にて詩賦を課し、それに合格することにより初めて文章生になった(記録では極稀に文章得業生に抜擢された例もある)。文章生の中でも優秀者は給料学生と呼ばれて穀倉院より学問料が支給された。文章得業生は定員が少なく、しかも給料学生が優先的に選ばれる慣例であったため、長く文章生であった学生は中途で教官の推挙を受けて学業を終える以前に官職に任じられることもあった。文章得業生が一定年限(3・5・7年目など)を経て秀才試(方策試・対策とも)を受験して方略策2条を作成した。及第者は次の除目で京官に任じられた他、将来的には文章博士への道も開かれた。なお、この過程で進士試が廃されて正式な官吏登用試験としては秀才試のみが行われるようになり、秀才は文章得業生の、同じく進士は文章生の別名となっていった。 やがて、文章博士経験者が従来の明経博士経験者に代わって大学頭・侍読・式部大輔などの要職を独占して公卿に昇進する者も登場するようになり、明経道が管轄する儒学に関する事柄にも文章道が関与することもあった。また、紀伝博士が行っていた紀伝勘文の作成も文章博士が引き継いでいる。
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