紀伝道・文章博士における地位の向上とは? わかりやすく解説

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紀伝道・文章博士における地位の向上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 19:46 UTC 版)

紀伝道」の記事における「紀伝道・文章博士における地位の向上」の解説

紀伝道統合期に活躍した文章博士である菅原清公大学頭兼務してその発展貢献し大学寮北側文章院という学舎設置した。後に菅原氏は清公・是善・道真・淳茂の4代文章博士輩出し文章院大学直曹(公認寄宿舎としての地位を得るに至った(これに対抗するために設置されたのが大学別曹と言われている)。教科書としては歴史からは「三史」と呼ばれた史記』・『漢書』『後漢書』文学からは『文選』を中心として、『三国志』『晋書』・『爾雅』などが用いられていた。また、後に講日本紀『日本書紀』講義)に文章博士紀伝学生文章生)も関わっている(特に元慶講日本紀受講して後に「日本書紀私記」をまとめたとされる矢田部名実擬文章生、後に大内記)などは良く知られている)ことや国史編纂関与した撰国史所職員紀伝学生加わっていることから、『日本書紀』以下の「六国史に関する講義行われていたと考えられている。 貞観年間までに文章博士2名、文章生20名(うち文章得業生2名)、擬文章生20名(文章生予備生)という構成となり、それでも学問成就して文章博士になれば貴族達するために志願者数が絶えず、そのために試験制度導入され、まず大学寮寮試にて中国正史より問題出題し擬文章生選抜した続いて擬文章生及び蔭位対象者宣旨などで特に許された者に対して式部省直接行う省試にて詩賦課し、それに合格することにより初め文章生になった記録では極稀に文章得業生抜擢された例もある)。文章生中でも優秀者は給料学生呼ばれて穀倉院より学問料支給された。文章得業生定員少なく、しかも給料学生優先的に選ばれる慣例であったため、長く文章生であった学生中途教官推挙受けて学業終え以前官職任じられることもあった。文章得業生一定年限3・5・7年目など)を経て秀才試(方策試・対策とも)を受験して方略2条作成した及第者は次の除目京官任じられた他、将来的には文章博士への道も開かれた。なお、この過程進士試が廃され正式な官吏登用試験としては秀才試のみが行われるようになり、秀才文章得業生の、同じく進士文章生の別名となっていった。 やがて、文章博士経験者従来明経博士経験者に代わって大学頭侍読式部大輔などの要職独占して公卿昇進する者も登場するようになり、明経道管轄する儒学に関する事柄にも文章道関与することもあった。また、紀伝博士が行っていた紀伝勘文作成文章博士引き継いでいる。

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