紀伝道の成立と文章博士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 19:46 UTC 版)
以後、紀伝博士の定員は文章博士の定員に移され(1名→2名)、紀伝得業生・紀伝生もそれぞれ文章得業生・文章生に吸収されて、学科名は「紀伝道(紀伝科)」・博士の号は「文章博士」が採用され、官制上は廃止された文章道(文章科)・紀伝博士はそれぞれ別称・通称的な存在として残されるようになっていった。これは文章博士が紀伝道成立以前からある官である事と「紀伝」を学ぶために設置された官職であった事実との間でバランスを取った結果とも考えられているが、結果的には他の学科が学科名と博士の称号の合致を見ている(明経道=明経博士、算道=算博士、明法道では当初律学博士という呼称が用いられたものの後に明法博士と改称された)ことから、明治以後に文章道と紀伝道が別々に存在したのが紀伝道が文章道に併合されたという誤った解釈を流布させる原因となった。 だが、実際には『三代実録』には明経・紀伝がしばし併記して記述され、『日本紀略』の応和4年2月25日(964年4月10日)の講日本紀(後述)において大学寮から「紀伝明経道」学生の出席が命じられた経緯が記されており、この出来事ついて触れた『類聚符宣抄』も同様の記載をしている。また、『類聚符宣抄』に収められた安和2年8月11日(969年9月25日)に出された宣旨にも「紀伝道」という語が明記されている。これに対して「文章道」という言葉を用いた例も全く無い訳ではない(『菅家文章』元慶8年2月25日付の菅原道真奏状の中に書かれた道(学科)の現状についての件の中で用いられた「文章」は文章道という呼称を用いたものとされている)ものの、過渡的なものであり、10世紀に入ると公的な場においては「紀伝道」のみが用いられるようになる。俗称として「文章道」という言葉もまた通用していた可能性はあるものの、「文章道」が公式な学科名として用いられたことは無かったと考えられている。
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