紀伝道の形骸化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 19:46 UTC 版)
しかし、前述の菅原氏や大江氏など優秀な学者を代々輩出した一族や給料学生以外の学生でも勧学院より同じような学問料が支給された藤原氏(主として北家日野流・南家・式家)などによる文章博士や文章生の世襲や文章博士による門人の推挙による一種の学閥化の風潮が次第に見られるようになった。また、文章生や文章得業生も難関である秀才試を受験するよりも、前述のように教官の推挙を受けて官職を得る選択をするようになった。そのために試験も次第に形式的なものとなり、天元2年(979年)に方略試を受けた大江匡衡は、事前に出題博士であった菅原文時から問題の出題箇所の通告を受けた(『江談抄』)とされ、更には11世紀に入ると十上制(一定回数試験を受けても合格できなかった者に対して特別に合格を認める制度)さえ導入されるようになっていった。加えて試験を受ける学生と特定の有力貴族が通じて、学生側から有力者への利益供与などと引換にその権力を背景に省試や秀才試合格を得ようとする例も見られるようになった。『小右記』永延2年12月4日(989年1月14日)及び翌日条によれば、権中納言藤原道長が自らが推挙した甘南備永資が省試に落ちた腹いせに式部少輔橘淑信を強引に捕えて自邸まで引き回したために父親の摂政兼家より一時勘当された事件が記されている。更に『兵範記』には久寿元年(1154年)の省試が、予め関白忠通・左府頼長・新院、そして式部省・大学寮幹部の間で入分(合格)者の枠を配分した後に試験が実施された事実を記しているのである(大幅に時代が下るが、試験が全く形骸化した15世紀に書かれた『桂林遺芳抄』によれば、宣旨分(天皇)2・院御分(上皇・法皇)1・殿下分(摂政・関白)1・省官分(式部大輔・少輔)3・両博士分(文章博士2名)2・判儒分(試験官)3の入分枠が定められていたという)。 更に平安時代中期以後には、遣唐使廃止の影響で中国からの新規の学問風潮の流入が実質上停止されたために、紀伝道発展の要素も絶たれて伝統を固守するだけの学問となり、その結果として文章博士の家による独占・家学化が進んだ。これによって、博士職を世襲する家以外から文章博士が登用される事は無くなり、博士達はそれぞれの家に家塾を設けて教育するようになった。このため、紀伝道・文章博士そのものは幕末まで続くが、教育学科としての実態が存在していたのは平安時代末期までであったと考えられている。
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