精神科医作家としてとは? わかりやすく解説

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精神科医・作家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 04:31 UTC 版)

なだいなだ」の記事における「精神科医・作家として」の解説

1955年慶応病院医学部神経科入局精神科医として勤務するかたわら文筆活動を行う。医局2年先輩北杜夫がいた。 1956年から、同人誌文芸首都」に参加北杜夫佐藤愛子らが会員にいた。 小説家としては1959年から1967年にかけて、「海」神話「トンネル」童話」「しおれし花飾りのごとく」「レトルト」の6作で、6回芥川賞候補上る受賞ならず。これは、阿部昭増田みず子島田雅彦多田尋子とともに最多落選記録である。著書『娘の学校』で、どんな小さな賞ももらわなかったのは誇りだと述べていたが、その『娘の学校』は、1969年婦人公論読者賞受賞。また1975年に『お医者さん』で毎日出版文化賞受賞1991年にベストメン賞(日本有職婦人クラブ)を受賞1961年慶應義塾大学医学博士号取得学位論文は「非定型循環病中心としたいわゆる内因性精神病に関する考察」。 医師としての専門精神科医で、アルコール中毒アルコール依存症)をメインテーマとしていた。東京武蔵野病院勤務した後、1962年から1969年まで、国立療養所久里浜病院勤務久里浜病院での日本で初の「アルコール中毒専門施設立ち上げにあたり治療方法最前線を学ぶために、1963年から1年間、WHO留学生としてヨーロッパ留学した。なだが久里浜病院確立したアルコール依存症治療方法は「久里浜方式」と呼ばれた。なお、なだが久里浜病院勤めていたころ、加賀乙彦久里浜特別少年院勤務しており、加賀との交流続いたその後私立井之頭病院をへて、都立荏原病院外来診療また、文藝春秋サイト文春写真館」では「勤めていた病院院長モデルとした小説原因で、院長不興を買い、結局病院退職する。」とあるが[リンク切れ]どの病院でなのかは、明確ではない。 1970年東京連続少年誘拐殺人事件受けて警察わいせつ目的誘拐罰則強化検討し始めると、新聞取材応じ犯罪者病人としてみるべき」「変質者ウヨウヨしているから怖いと考えるよりも、人間の業の深さ教えてくれるものとして受け止めるきだろう」と、単に刑罰強化すれば良い精神病院押し込めれば良いしがちな風潮釘をさすコメント行った1988年から1990年まで明治学院大学国際学部教授務め人間論講じる

※この「精神科医・作家として」の解説は、「なだいなだ」の解説の一部です。
「精神科医・作家として」を含む「なだいなだ」の記事については、「なだいなだ」の概要を参照ください。

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