米国の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:39 UTC 版)
国光計画の問題点として必要な揚陸艦と輸送機が不足していたことであり、アメリカの支援が必要不可欠であった。1962年1月から3月にかけて、蔣介石は中国国内で共産党政権の失政に対する不満が高まっており、それを救うための大陸反攻に対する同意をアメリカのケネディ政権に求めた。 ケネディ政権は中華人民共和国が経済的に疲弊しつつも内部から大規模な反乱が起きることはなく無謀だと認識していたため、また蔣介石の大陸反攻が第三次世界大戦を引き起こすものだと認識していたため、回答は引き延ばした。ケネディ政権が明確な回答を避けて引き延ばしたのは明確に拒否の意向を示すとアメリカ政府内外のタカ派の反共主義者、特に台湾の国民党政権と独自の外交チャンネルを持ち、アイゼンハワー政権以来の“巻き返し政策”を支持するCIAや軍部の反発が予想されたこと、また国民党政権が大陸反攻においてアメリカの支援が期待できないと判断すると勝手に単独の(そして自滅的な)大陸反攻を実行する可能性があったためである。 5月からの人民解放軍の大規模な軍事動員が開始されるとケネディ政権は国民党の軍事動員への牽制だと判断したがこれが1958年の第二次台湾海峡危機に続いて新たな台湾海峡危機をおこすつもりである可能性も排除できなかった。このためケネディ政権はいくつかの外交チャンネルを通じて中華人民共和国側の意向を探り、またアメリカが蔣介石の大陸反攻を支持しないことを伝えようとした。6月のワルシャワでの米中の駐ポーランド大使の非公式会談で中国側は先制攻撃を受けない限り台湾への攻撃は実施しないと伝え、米国側は国民党政権の大陸反攻を支持しないと伝えた。 1962年6月、彭孟緝参謀総長は胡炘総統府侍衛長に大陸反攻の決行日が期限不明で延期となり、恐らくは翌年になったと伝えた。9月新任の駐中華民国大使のアラン・G・カークが台北に赴任し、蔣介石との会談で国民党政権の大陸への軍事行動は米華相互防衛条約によりアメリカの事前承認が必要なこと、今後中国大陸への工作については共同委員会を設置すると伝えた。蔣介石が抗議するとカーク大使は米華相互防衛条約の破棄とそれに基づく各種援助の停止をほのめかした。この会談によりケネディ政権は大陸反攻の引き延ばしに成功した。大規模な大陸反攻作戦を延期せざるを得なくなった国民党政権は小型のモーターボートによる大陸東南部沿岸への襲撃(海威計画)に移行していった。 1962年10月から12月にかけて、人民解放軍は広東省沿岸において国民党軍の9回に及ぶ海上突撃を阻止し、172名を殺害、舟艇三隻を撃沈した。12月10日付の『人民日報』は国民党軍の海上突撃を完全に撃退したと発表した。1962年以降も蔣介石は大陸反攻の実現を探り続けており、揚陸艦艇の建造計画や空挺師団建設のためのパラシュート訓練を始めていた。1963年1月に蔣介石は再びアメリカに対して大陸反攻を打診した。このときには「この種の軍事行動は中国における国内問題であり、他国には関係の無い主権の行使である」と表明し、米華相互防衛条約の適用範囲外だとした。この時までにケネディ政権は政府内の大陸反攻に賛成的な意見を封じ込めていたため、国民党政権に対してこれからも台湾国民党政権を支援し続けるがそちらが当てにしている大規模な反乱が中国国内で起きるとは考えにくく、見込みのない大陸反攻には同意できないと明確に回答した。1962年のワルシャワでの会談以降中国の共産党政権による“台湾解放”が近い将来起こる可能性はなくなり、むしろ国民党政権による暴発的な大陸反攻により第三次世界大戦が起きることが懸念材料となっていた。また国民党政権側でも1963年初頭に中国大陸からの亡命者500人を対象とした聞き取り調査で「共産党への不満は高まっているが反乱を起こす兆候はない」という結果が出た。 1963年9月に蔣経国が渡米しケネディ大統領ら米政府首脳と面会し、大陸反攻の受け入れを再三訴えたがこの時には中国国内の状況ではなく中ソ対立を持ち出し大陸反攻の好機だと主張したがケネディ政権は今の状況で大陸反攻を行えば中ソ対立が解消されて逆にソ連は中国の共産党政権を助けるために介入するだろうとみていたので逆効果であった。 1963年以降も国民党軍は海威計画による中国大陸沿岸への小型舟艇による襲撃を継続していたがその殆どが撃退された。
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