第9編の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)
性に任せて逍遥し、縁に随って放曠す。ただ凡心を尽くすのみ、別に勝解無し。我を以て之を観るに、凡心作る処、勝解卓然たり。東坡は確かに天才であった。恐らくその頭脳の俊敏なことにかけては、宋代を通じて彼の右に出づる者はあるまい。哲学に宗教に文芸に行くとして通ぜざるなし、そしてその研究の対象を容易に内面的に把握すると同時に、またこれを表現し再造するにも霊活な手腕を有って居た。しかも内界の経験を表現するに当たっては、その驚くべき綜合力と統一力とに依って偉大なる創造を試みた。雄弁家であり、思想家であり、芸術家であった。しかしそれは彼の与えられた問題である。私たちに取って彼の天稟は本質的な問題ではない。筆者が親しみ、説こうとするのは、生涯に於ける比類なき数奇な運命と、その艱難流離の辛い試練を凌いで、歩一歩開拓して往った驚嘆すべき人格的努力と、その心の国の山水とである。東坡は、先ず至純の情緒の持ち主であった。鋭敏な意識は善悪美醜に感ずること極めて強く、またその感じを周囲の関係から空しく葬ることが中々できない性質の人であった。飽く迄天真で非妥協的であった。自己の往かんと欲する所に敢然として往き、自己の言わんと欲する所を堂々と発表した。1078年(元豊元年)正月24日、建安の章質夫の請に任せて書いた思堂記に「余は天下の思慮なきものなり。事に遇えば即ち発し、思うに暇あらず。未だ発せざるに之を思うも則ち未だ至らず。すでに発して之を思えば則ち及ぶなし。これを以て終身思う所を知らず。言、心に発して口を衝く、之を吐けば人に逆らい、之を茄えば余に逆らう。おもえらく寧ろ人に逆らわんと。ゆえに卒に之を吐く。」という。面目躍如。東坡が寧ろ人に逆らわんといったのは決して推譲謙遜の徳を欠いた言い草ではない。飽く迄も非妥協的な精神の宣言である。熾烈な非妥協的精神、独往の勇気が遂に彼の公生涯をして比類なき艱険なものたらしめた。三度の大いなる衝突を惹起して居る。第1は王安石一派の新法党との衝突、第2は司馬光等の元祐改革派との衝突、第3は程伊川及びその洛党と彼及び彼の蜀党との衝突である。第1、第2は畢竟法政に関する思想の差違に基づくものであった。第3は両者の性情の相容れなかったことが根本的の原因である。第1は入獄と次いで黄州への流謫に会った。第2は南方惠州に貶謫。第3は海南島に流謫。66歳の夏、免されて都に還る途中に長逝。彼は黄州に来て、謫居生活をするに及び、熟々と考えた。幾ら「道」とは何ぞや、「性」とは何ぞや等の問題を考察しても、それが論理の遊戯である限り、自己の人格には何等の進歩もない。自分に今緊切な問題は、この浮ついた気分を如何するか。この自堕落な習慣を如何するかの二点である。現在の如き自堕落な習慣から脱却し、更に深き沈潜の心を得て、始めて自分は真に道に進むことができる。このプロセスを抽きにして焦って見たところで、結局何にもならないことは知れ切って居る。そこで彼はこのプロセスに成功するために、州の安国寺で始終坐禅を行じた。また道教のいわゆる養生の法も講じた。1083年(元豊6年)3月25日、彼は弟である子由に書を寄せていう。「性に任せて逍遥し、縁に随って放曠す。ただ凡心を尽くすのみ、別に勝解無し。我を以て之を観るに、凡心作る処、勝解卓然たり。ただこの勝解、有無に属せず。言語に通ぜず。ゆえに祖師人に教うるここに至って便ち止まる。眼翳尽くるが如し。眼自ら明あり。医師ただ翳を除く薬あるのみ。何ぞかつて明を求むる薬あらん。明もし求むべくんば、即ちまたこれ翳なり。固より明中翳を求むべからず。即ち翳外明無しと言うべからず。世の昧き者は便ち頽然知なきを以て認めて佛地となす。もし此の如き是れ佛ならば、猫児狗児の飽くを得て熟睡し、腹搖き鼻息し、土木と同じきもの、恁麼のときに当たりては一毫の思念なしというべし。あに猫狗すでに佛地に入れりというか。ゆえにおよそ学ぶ者は妄を観じて愛を除き、粗より細に及び、念々忘ぜずんば、会作一日住する所無きを得ん。弟我に教うる所の者、是れ此の如きや否や。」沈潜の心なり。66歳の7月28日、最期のとき、「先生ほどのお方が臨終の際にご辞世がないとは。」「そんなことをするのは偽です。」偉大な人格の示現である。
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