第9親衛戦闘機連隊への転属
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「アメト=ハン・スルタン」の記事における「第9親衛戦闘機連隊への転属」の解説
同年夏、アメト=ハンは第4戦闘機航空連隊の中から抽出された派遣部隊の一員として、ブリャンスク戦線第287戦闘機航空師団(ロシア語版)隷下に配属される。ヴォロネジ上空にて、いずれも共同でBf109 10機、He-113およびJu-87 各1機の撃墜を記録する。8月にスターリングラードに再配属され、乗機は国産のYak-7Bとなった。連隊の中でもいち早く夜戦に従事した者として指揮官から称賛された。その後まもなくヴォロネジに戻り、乗機はYak-1となったが、なかなか戦果を挙げられなかった。12月になって、ようやくHe-111 1機の単独撃墜を報告する。スターリングラードの戦いでは、一転してたちまち撃墜数を増やし、10月に名門の第9親衛戦闘機連隊(ロシア語版)に再配属された。この部隊は、ドイツの航空攻撃に対抗するべく全員が飛行エースで再編成されていた。著名な部隊員としては、当時ソ連のトップエースだったミハイル・バラノフ(英語版)、最初の女性飛行エース、リディア・リトヴァクがいた。1942年8月にスターリングラード上空で、乗機Yak-7が撃墜されるも、2度目のパラシュートで生還。1942年11月、第9親衛戦闘機連隊の第3飛行隊隊長就任、以後終戦まで同職を務めた。また、上空からの襲撃のため、第8空軍司令官ティモフェイ・フリューキン(ロシア語版)は、機体にワシのパーソナルマークを描くことを許可した。 1943年にベルP-39 エアラコブラの受領と慣熟訓練の後、ロストフ・ナ・ドヌ上空の戦闘に参加し、タガンログ、メリトポル、クリミア半島奪還戦の一環として、クバン地域での激戦を目の当たりにした。1943年8月24日、モルドバ、ウクライナ南部、ヤロスラブリ防空戦のみならず、南部、ブリャンスク、スターリングラードの最前線での戦闘に貢献したことでソ連邦英雄称号を授与された。ソ連の公式文書に記録されてはいないが、英国の歴史家トーマス・ポラックとクリストファー・ショアーズは、アメト=ハンはJu 88に二度目のタラーンを敢行した事が1943年の冬にスターリングラード戦に派遣された原因であるとしている。記録上、タラーンを敢行したソ連軍パイロットは2回が17名、3回がアレクセイ・クロビストフ(英語版)ら2名、4回はボリス・コフザン(英語版)1名のみである。
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