第17代自由民主党総裁
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「橋本龍太郎」の記事における「第17代自由民主党総裁」の解説
1995年9月、橋本龍太郎は圧倒的な国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。 当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶応大学出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野洋平は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退する。そして、河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された。総裁選の結果は、数々の役職を無難にこなし竹下派の支持を取り付けた橋本龍太郎は304票を獲得し、87票を獲得した小泉純一郎に圧勝した。こうして、橋本龍太郎は、第17代自由民主党総裁に就任し、自民党幹事長には宮澤派の加藤紘一、総務会長には三塚派の塩川正十郎、政調会長には旧渡辺派の山崎拓を選任した。また、橋本龍太郎は総裁就任に伴って、村山改造内閣では副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。 1996年1月11日に村山富市首相の辞任に伴い、橋本龍太郎は第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による「第1次橋本内閣」が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では、橋本は改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。 橋本の就任当初は村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題について、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開して激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開した。橋本政権は序盤から大きな批判、逆風にさらされた。ただし、海外市場では好感する動きが見られた。 1996年2月23日にアメリカのクリントン大統領との首脳会談で橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月12日に日米両政府が全面返還に合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策・環境政策が絡む中でアメリカや沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、翌1997年12月24日には比嘉鉄也名護市長によるヘリポート受け入れ(辺野古移設)表明を取り付け、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率は60パーセントに上昇した。 自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に、橋本龍太郎は靖国神社を参拝した。この現職の内閣総理大臣の参拝は、中曽根康弘が1985年の終戦記念日に初の公式参拝をして以来であった。 同年の臨時国会冒頭の9月27日、橋本龍太郎は衆議院を解散する。そして、小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙期間中は日本各地から橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われるほど国民的人気を見せ付けて自民党は大勝利した。
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