第二次世界大戦中のレジスタンス
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「イレーナ・センドラー」の記事における「第二次世界大戦中のレジスタンス」の解説
ナチス・ドイツがポーランドを占領していた第二次世界大戦中、センドラーはワルシャワに住み(それ以前はタルチュィン (Tarczyn) に居住)、社会福祉局に勤務する。ワルシャワ・ゲットーが作られるよりずっと以前からユダヤ人を援助する活動を行っていたセンドラーは、戦争中も彼らの支援に取り組むことになる。ユダヤ人を援助することは大変危険であった-ナチス・ドイツの占領下にあったポーランドでは、ユダヤ人をかくまっているのが発覚した場合、かくまった本人だけでなくその家族もろとも皆殺しにされた。これはナチス・ドイツ占領下にあったヨーロッパ諸国のうちポーランドにのみ適用された厳しい措置であった。 1942年12月、ゲットーの外にいる非ユダヤ系のポーランド人たちによる地下秘密組織「ユダヤ人救済委員会」の児童関係部門が設立された。センドラーは(ヨランタJolantaという偽名をもとに)この部門の長に任命され、約20人のメンバーを組織し指導した。社会福祉局の職員としてセンドラーはワルシャワ・ゲットーに出入りする権限を与えられ、ゲットー内でチフスの兆候がないか、あるいはナチスが警戒する活動が行われていないかチェックする仕事をさせられていたが、その立場を利用してセンドラーはゲットー内での支援活動を展開することになる。ゲットー内ではダビデの星を身に着けていた。これはユダヤ人との連帯を示すためであり、ゲットー内で活動する自分を目立たなくさせるためであった。センドラーは中央福祉協議会 (RGO) と関連するワルシャワ市当局の児童関係部門とも協力していた(中央福祉協議会はナチス・ドイツの許可のもと活動したポーランド人救済組織である)。 ナチスのユダヤ人に対する政策・行動、強制収容所への連行(虐殺)を受けて、センドラーはゲットーから子供たちを脱出させる活動を組織した。箱、スーツケース、手押し車などに子供たちを入れたり、スカートの中に隠したりして数多くの子供を連れ出すことに成功した。ユダヤ人の子供たちはポーランド人家族、「マリアの家族の姉妹たち」ワルシャワ孤児院、トゥルコヴィツェ (Turkowice) やホトムフ (Chotomów) にあるカトリックの修道院(「聖マリア処女懐胎小奉仕修道女修道会」など)にかくまわれた。教区司祭の館に送られ、そこからさらにどこかへ送られてかくまわれた子供たちもいた。センドラーは子供たちの名前を書いたリストを陶器の瓶に隠してリンゴの木の下に埋め、子供たちの本名などの情報と、偽名などの新しい情報を保管していた。 センドラーは1943年にゲシュタポに逮捕された。強制収容所に入れられ、口を割らせようと幾度も拷問を受けたが、「活動内容を明かすぐらいなら迷わず死を選ぶ」(生前の伝記)と沈黙を守り通し、助けた子供たちの名前を明かすことは無かった。その後死刑宣告を受けたが、ジェゴタが護衛のドイツ兵に賄賂を渡し彼女の解放をとりつけることに成功する。解放された彼女は、腕や脚をへし折られて意識を失ったまま森の中に放置されていた。 公式にはセンドラーはナチス・ドイツが出した広報の中にある処刑された人々のリストに入っている。その後センドラーは身を隠し、ユダヤ人の子供たちを援助する活動を続けた。助けられた人々は自分たちのことを「センドラーの子供たち」と呼んでいるという。
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