第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開とは? わかりやすく解説

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第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 21:58 UTC 版)

ジョン・マッキントッシュ・スクエア」の記事における「第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開」の解説

第二次世界大戦が始まると、陸海軍軍人増やし要塞としてのザ・ロック戦力高めるため、ジブラルタルからの市民強制疎開決定された。すなわち、必要不可欠職業市民のみが残留許されることになった1940年6月はじめ、13500人の疎開民がフランス領モロッコカサブランカに船で渡った。しかし1940年6月フランス降伏メルセルケビールでのイギリス艦隊によるフランス艦隊攻撃の後、親独のヴィシー政権全てのジブラルタル疎開民に退去求めた。やがて15隻のイギリス貨物船カサブランカにやってきて、退去機会訪れた。これはダンケルク救助されフランス軍兵士らを送還するためにクライトン司令率いていた船団で、兵士らを上陸させた後、全ての疎開民を乗せることに同意するまで抑留された。クライトンは船を清掃して補給することもできず、(また本国海軍本部疎開民らを乗せないよう命じていたが、)最終的には彼らを乗せることに同意した。しかし疎開民らがジブラルタルに着くと、ジブラルタル総督クライヴ・リドル(英語版)は彼らの上陸を拒んだ。いったん上陸させてしまうと、再疎開事実上不可能になるのを恐れたのである町の人々は、疎開の上禁止の報を聞くジョン・マッキントッシュ・スクエア集まり演説が行なわれ、二人議員交易図書館と共にリドル総督面会して疎開の上陸を要請したロンドンからの指示待って、他の船が到着するまでという条件上陸許され7月13日に再疎開完了した

※この「第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開」の解説は、「ジョン・マッキントッシュ・スクエア」の解説の一部です。
「第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開」を含む「ジョン・マッキントッシュ・スクエア」の記事については、「ジョン・マッキントッシュ・スクエア」の概要を参照ください。

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