第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開
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「ジョン・マッキントッシュ・スクエア」の記事における「第二次世界大戦中のジブラルタル市民の疎開」の解説
第二次世界大戦が始まると、陸海軍の軍人を増やし要塞としてのザ・ロックの戦力を高めるため、ジブラルタルからの市民の強制疎開が決定された。すなわち、必要不可欠な職業の市民のみが残留を許されることになった。 1940年6月はじめ、13500人の疎開民がフランス領モロッコのカサブランカに船で渡った。しかし1940年6月のフランス降伏とメルセルケビールでのイギリス艦隊によるフランス艦隊攻撃の後、親独のヴィシー政権は全てのジブラルタル疎開民に退去を求めた。やがて15隻のイギリス貨物船がカサブランカにやってきて、退去の機会が訪れた。これはダンケルクで救助されたフランス軍兵士らを送還するためにクライトン司令が率いていた船団で、兵士らを上陸させた後、全ての疎開民を乗せることに同意するまで抑留された。クライトンは船を清掃して補給することもできず、(また本国の海軍本部は疎開民らを乗せないよう命じていたが、)最終的には彼らを乗せることに同意した。しかし疎開民らがジブラルタルに着くと、ジブラルタル総督クライヴ・リドル(英語版)は彼らの上陸を拒んだ。いったん上陸させてしまうと、再疎開が事実上不可能になるのを恐れたのである。町の人々は、疎開民の上陸禁止の報を聞くとジョン・マッキントッシュ・スクエアに集まり、演説が行なわれ、二人の議員が交易図書館長と共にリドル総督に面会して疎開民の上陸を要請した。ロンドンからの指示を待って、他の船が到着するまでという条件で上陸が許され、7月13日に再疎開は完了した。
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