第二次世界大戦中とホロコースト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 05:26 UTC 版)
「雷十字党」の記事における「第二次世界大戦中とホロコースト」の解説
1939年のモロトフ=リベントロップ協定締結の直後、ラトビアはソヴィエト連邦に併合された。ラトビアのソヴィエト政府の下で、カールリス・ウルマニスによって投獄されたラトビア共産党(英語版)党員が大規模なセレモニーと共に釈放されたが、投獄された雷十字党員が釈放されることはなかった。その上、1940年から1941年にかけて、ソヴィエト政府によってさらに多くの雷十字党員が逮捕されることになり、中にはシベリア送りにされた者もいた。 1941年6月下旬にナチス・ドイツがラトビアへ侵攻した際、ドイツへ移っていたグスタヴス・ツェルミンシュ(英語版)はラトビアへ帰還し、ドイツ国防軍のゾンダーフューラー(英語版)に就任した。 同年7月上旬、雷十字党は再び公に活動することを一時的に認められた。雷十字党員は、アライス・コマンドー部隊(英語版)(ラトビア人のナチ党SS隊員ヴィクトルス・アーライス(英語版)が指揮した、ラトビア予備警察(英語版)の分隊の一つ)への志願兵として、ドイツ政府から重宝された。ところが、歴史研究家のルディーテ・ヴィークスネの調査によると、実際にラトビアでのホロコースト(英語版)に関与した雷十字党員はほんの僅かであり、彼らの多くはプロパガンダに従事した ということだ。 ホロコーストが始まった初めの頃は、マルティンシュ・ヴァグラス(歴史研究家のヴァルディス・ルマンスは、彼を雷十字党員だとしている)が、イェルガヴァでのホロコーストに、SDの下で分隊を率いて参加した。ただし、歴史研究家のアンドリエヴス・エゼルガイリスは、ヴァグラスは雷十字党の党員ではなく、彼とナチ党の間には「疑念の壁」があったとしている。またエゼルガイリスは、「私には、ユダヤ人の殺害に対して10人以上もの雷十字党員が参加していたとは考えにくい。彼らは、ナチ党の反ユダヤ主義出版物の調達というもっと重要な役割が割り当てられていた。」と述べている。 1941年8月に、ドイツ上層部は雷十字団の完全禁止を決定した。ナチ党に合流する雷十字党員もいた一方で、反ドイツ感情を持ち続け、ドイツの占領を打倒しようとする団体に参加した雷十字党員もいた。 ツェルミンシュは、強大なラトビア軍が形成されることを望んで、ドイツとの協調を続けた。1942年2月から、彼はラトビア組織化義勇兵委員会のリーダーとなり、ラトビア予備警察大隊へのラトビア人男性の補充に努めた。それらの大隊は前線から離れ、ラトビアやベラルーシでパルチザン鎮圧に当たった(これには、地方に潜んだユダヤ人などの虐殺なども含まれた)。
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