空襲前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 23:44 UTC 版)
戦争末期、熊谷および周辺地域は、理研工業や熊谷航空工業などの軍需施設や熊谷陸軍飛行学校などの軍事施設、部隊の駐屯する熊谷市立熊谷西国民学校や埼玉県立熊谷女学校などの学校や寺社および周辺の集落が艦載機による機銃掃射やロケット弾による攻撃を受け、熊谷陸軍飛行学校にほど近い国有鉄道の籠原駅も攻撃を受けたとの証言がある。証言の多くは詳細な日日が定かでないが、理研工業と大里郡奈良村の集落に対する攻撃の日日については1945年(昭和20年)7月28日、利根川にかかる刀水橋周辺に対する攻撃の日日については4月3日と記されている。 『埼玉県史』によれば、県内および県北部では1944年(昭和19年)末から飛行場や軍事施設に対する艦載機による機銃掃射がたびたび行われ、熊谷周辺では1945年(昭和20年)7月10日と7月17日に大里郡花園村が、7月28日に北埼玉郡手子林村と大里郡長井村が攻撃を受けたことが記録されている。『太田市史』や『新横須賀市史』によれば7月10日から8月15日にかけての一連の攻撃はアメリカ海軍第3艦隊第38任務部隊およびイギリス海軍第37任務部隊(英語版)によるもので、東京周辺の航空基地および太平洋沿岸の工業施設を艦載機による攻撃や艦砲射撃により破壊することを目的としたが、熊谷の近辺では群馬県新田郡太田町や同生品村などの飛行場およびその周辺地域が被害を受けている。 アメリカ軍の攻撃対象が日本の大都市圏から中小都市へと移行する中、艦載機などにより事前に空襲を警告し降伏を促すビラの投下が行われていたが、これには一般市民に対して心理的圧力を与えると同時に予告を行うことで国際社会に対して空襲を正当化する狙いがあった。さらに第20航空軍司令官のカーチス・ルメイ少将の指揮によりビラの投下から空襲の実施までを一元化した「リーフレット心理作戦」が実施され、7月27日には11都市に6万枚、8月3日には11都市に6万枚、8月4日には浦和市を含む12都市に76万枚を投下、作戦終了後の8月8日までに予告されたうちの16都市が空襲を受けた。熊谷市にも8月上旬にビラが投下されたが、そこには「花の熊谷忘れはせぬが、お茶の静岡先にやる」あるいは「熊谷良いとこ花の街、七月八月灰の街」と記されていた。 8月13日、県内にはF6F ヘルキャットやF4U コルセアの編隊が早朝から夕方にかけて断続的に飛来して飛行場や軍事施設などを攻撃し、川越市や熊谷市でも同機による機銃掃射が行われた。この際、熊谷市の南に位置する大里郡の小原陸軍飛行場が同日昼頃に8機のF6Fによる攻撃を受け、同飛行場に配備された九五式一型練習機、四式戦闘機(疾風)、二式複座戦闘機(屠龍)がすべて破壊された。 その一方で、8月14日頃には日本がポツダム宣言を受諾するとの噂や昭和天皇により重大放送が行われるとの情報が熊谷市民の間に流布しており、軍関係者の親類から直接「翌15日に天皇陛下により重大な玉音放送がある」との情報を得て「今夜の空襲はない」と安堵感をもって迎えていた者もいた。
※この「空襲前夜」の解説は、「熊谷空襲」の解説の一部です。
「空襲前夜」を含む「熊谷空襲」の記事については、「熊谷空襲」の概要を参照ください。
- 空襲前夜のページへのリンク