空襲展の開催
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1972年(昭和47年)3月、地区労役員らは宇治山田空襲を記録する必要性を訴え、「伊勢市の空襲を記録する刊行物の発行と平和記念日制定の請願」を提出、1975年(昭和50年)1月に伊勢市議会で採択された。この請願提出の中心となった山川忠三は「伊勢市空襲を記録する会」を結成、空襲展の開催や空襲の実態や体験談をまとめた会報を作成するなどの活動を展開した。その後、空襲展は実行委員会形式で開催されるようになり、伊勢市と伊勢市教育委員会が名を連ねた。1988年(昭和63年)には三重県立伊勢高等学校歴史部が既存資料や聞き取り調査を元に宇治山田市の焼夷図を作成し、以後空襲展の中心展示物となった。戦後50年となる1995年(平成7年)には、空襲のあった7月29日に伊勢青年劇場(現・劇団伊勢)が演劇「伊勢大空襲」を上演した。
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