空襲後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 08:55 UTC 版)
終戦後、伊勢神宮は国家神道を離れ、宗教法人となった。連合国軍はたびたびジープで宇治橋を渡り、神域に乗り入れようとして衛士を困らせた。またGHQから視察が来た際、神宮の面積を縮小されそうになったところ、当時の少宮司が機転を利かせ、「宇治橋から見渡せる範囲の神域は自然保護のために必要である」と話し、それが認められたことで神域は守られた。参宮客は激減し、1947年(昭和22年)の外宮の参宮者は1940年(昭和15年)の10分の1まで落ち込んだ。これは社会の混乱を反映したものである。また、戦前の「伊勢神宮参拝の押しつけ」に対する反動であるとする見解や、当時連合国軍の憲兵が宇治橋前で参宮客を捕らえ、沖縄へ連行するというデマが流布していたことが影響しているという見解もある。1949年(昭和24年)に予定されていた式年遷宮は世情に配慮した昭和天皇の意向により延期されることとなったが、宇治橋だけでも新しくしようという意見が高まり、1949年(昭和24年)に架け替えが行われ、4年後の1953年(昭和28年)には延期された第59回式年遷宮が催行された。以降、式年遷宮(遷御)の4年前に宇治橋を架け替えるのが定着した。 伊勢神宮では銀行の貸し渋りもあって神職への俸給もままならず、1960年代になっても月給は分割払いの状態が続いた。「神宮関係特別都市計画法」で規定された事業は戦局が思わしくなかったため、一部で宮域の拡張と河川改修がなされたのみにとどまり、事業の主体であった内務省とともに廃止された。その後、社会の安定化と経済発展に伴って参宮客は増加し、伊勢神宮は「信仰の対象」から「伊勢志摩観光の主要目的地の1つ」へと変貌した。 宇治山田市は1955年(昭和30年)1月に市名を伊勢市に改めた。市内の旅館は多くが焼失し復興が遅れたため、景観の優れた二見町や鳥羽市に宿泊客を奪われ、伊勢市は宿泊地としての性格を失った。更に伊勢志摩スカイライン、伊勢道路、近鉄鳥羽線など交通網の発達も重なって、伊勢市は通過型の観光都市となり、伊勢志摩地域の中心都市・商工業都市としての比重を増すこととなった。
※この「空襲後の状況」の解説は、「宇治山田空襲」の解説の一部です。
「空襲後の状況」を含む「宇治山田空襲」の記事については、「宇治山田空襲」の概要を参照ください。
- 空襲後の状況のページへのリンク