空襲開始と退避船団の編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 03:57 UTC 版)
「第4611船団」の記事における「空襲開始と退避船団の編成」の解説
6月11日、予定より早くマリアナ諸島沖に到着した第58任務部隊は、ミッチャー中将の案で半日繰り上げて同日午後からマリアナ諸島への空襲を開始した。従来のアメリカ機動部隊の空襲は明け方開始だったことから、午後からの攻撃開始による奇襲効果を狙った戦術であった。この初日の攻撃は制空権奪取を主目的とした戦闘機中心のもので、アスリート飛行場などの日本軍基地航空隊は壊滅状態となったが、艦船の被害は貨物船「慶洋丸」ほか1隻損傷にとどまった。 11日の空襲を受けても日本海軍は上陸作戦が始まると気づいていなかったが、空襲が続くことは予想したため、行動可能なマリアナ所在の輸送船で護送船団を編成、島外へ退避させることにした。第4611船団がその一つで、加入輸送船は13隻と脱出船団の中で最多であった。護衛部隊は第4610船団の護衛に予定されていた水雷艇「鴻」を旗艦に、第4号海防艦(12日合流)と駆潜艇3隻、ほかに駆潜特務艇・掃海特務艇など小型艇5隻の計10隻で、「鴻」座乗の庄司芳吉大佐が船団指揮官となった。 他の退避船団は、給糧艦「杵埼」を旗艦に徴用輸送船5隻と駆潜艇2隻で構成の杵埼船団で、杵埼艦長指揮の下で11日夜にサイパン発、20日から22日にかけて奄美大島に無事に到着した。また、「廣順丸」ほか輸送艦船2隻を海防艦2隻で護衛した廣順丸船団は、空襲開始より前の11日早朝にサイパン発パラオ行きで出航済みだったが、第1号輸送艦が損傷した以外は無事に目的地へ到着した。
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