空襲後から敗戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:23 UTC 版)
6月29日の空襲によって多数の市民が犠牲となり、市街地の73%が焼け野原と化し国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されていた岡山城の天守閣や蓮昌寺の伽藍を始めとした中世から近世に掛けての文化財も失われた。一方で、北郊の津島にあった陸軍の拠点はほとんど無傷で残り、御津郡宿村(現:北区宿)の兵器廠及び弾薬庫は無傷だった。この施設一帯には岡山空襲よりも前、空爆予告のビラが撒かれ周辺住民の一部には本気にして家財道具を大八車に乗せて避難した者もあったが実際に空爆はなかった。 7月9日には岡山県が「教育非常措置」を発表し学童の縁故疎開、集団疎開を行う方針を固めた。一部の学校で集団疎開が開始されたものの、文部省によって岡山県の集団疎開が不許可となったため、同月末には集団疎開の方針を改め、分散教育を行うことに変更した。 一方のアメリカ軍は7月上旬、岡山市を上空から偵察し岡山市の破壊面積率を63%とする報告を行った。これは、当初アメリカ軍が1回の空襲によって破壊を計画していた面積の119%にあたるものだった。6月29日以降、アメリカ軍によって大規模な空襲は行われなかったものの、7月24日には四国沖に侵入した空母「シャングリラ」の空母艦載機12機による機関銃掃射によって岡山市をはじめとした県南部の操車場や運行中の列車が攻撃を受け、乗り合わせた市民ら44人が犠牲になった。この空母からの艦載機による空襲は長らく目的が不明とされていたが、鳥取県の境港市に所在した日本軍の航空基地攻撃のために出撃し、帰艦途中に攻撃したものであることが明らかになった。 その後、8月6日には広島県広島市に、9日には長崎県長崎市に原子爆弾が投下され15日に敗戦を迎えた。
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