祭祀と氏子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:34 UTC 版)
画像提供依頼:祭礼の様子の画像提供をお願いします。(2018年11月) 宮津の氏子は、東西の地区で別々の氏神をもつ。東地区の氏神が和貴宮神社で、西地区の氏神は山王宮日吉神社である。 1676年(延宝4年)の記録によると、かつての氏子は京街道から東堀川付近を境に東西に分かれ、分宮(和貴宮神社)は田町と紺屋町を氏子とした。分宮は、江戸時代には藩の国祭りとされた山王宮日吉神社の祭礼に曳山(芸屋台)や神楽の奉仕などで参加したものの、独自の祭礼は行っていなかったと考えられている。 1827年(文政10年)に、西堀川を堺に東西に分かれるよう氏子区域が改められ、職人町(宮本町)、万町、本町、魚屋町が、分宮の氏子に加わった。この氏子範囲の改定により、山王宮日吉神社の例祭「山王祭」で、漁師町によって行われている浮太鼓が伝承された。1861年(文久元年)に、宮津藩から神輿を許され、初めて城内に入った記録が残されている。 分宮の例祭は9月11日に行われる秋祭で、東祭とも称され、第二次世界大戦後、5月15日に移行したと伝えられるが、明治期の町人・戸祭乗泰の日記には、明治時代末期には春5月にも祭りが執り行われていた様子を次のように伝えており、春秋2度の祭礼を行っていた時期もあることがわかる。 獅子はやしつつ通る、二時神輿、太鼓通りぬ、今日は分宮の祭典なり(明治40年5月10日) 戸祭乗泰の日記には、「赤飯を食ひ、八時出勤。日没後神輿の渡御を拝し、太鼓を送る。父と町へ出て屋台を見、十一時帰宅(明治44年5月15日)」とも記されており、1911年(明治44年)は5月15日に祭礼が行われていたことがわかるが、これが分宮の春の例祭の一部であるのか、西の山王宮日吉神社の例祭のことであるのかは不明である。 現在の和貴宮神社の例祭は毎年5月13日から15日にかけて行われており、同時期に山王宮日吉神社で行われる山王祭とともに、宮津祭と称する。和貴宮神社の宮津祭は宮本・万町・本町・魚屋・新浜の5町で行われ、各町が1年ごとの輪番制で神輿、神楽、浮太鼓を担当する。最終日15日の祭礼では、本宮祭、神幸祭、神楽の奉納に続いて、浮太鼓が「送り太鼓」を打ち鳴らし、神輿が町内を巡行する。神輿は台車を用いず、約150名の担ぎ手が3交代制で担いでの巡行する。巡行では先太鼓を先頭に鈴や法螺貝などの鳴り物が到来を知らせ、「ヨイサーヨイサー」の掛け声にあわせて神輿が運ばれる。目的地について神輿を台に置く際には、「ヨイサノ、ヨイサノ、ヨー」で締めくくる。出発の際には「おたち~」「肩入れ~」の掛け声に合わせて神輿を担ぐ。現在の神輿は2006年(平成18年)に新調された。 神輿の巡行と別に、神楽と子供神輿もそれぞれ町内を巡行する。御旅所は宮津市役所となっており、市役所前では神事も行われる。神楽は伊勢太神楽系の獅子神楽で、現在では氏子が演じるように移行しているが、かつては演者を雇うのが慣習であり、福井県の武生から太神楽の一座が招かれていた。
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