社会福祉政策の転換点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:19 UTC 版)
「社会的市場経済」の記事における「社会福祉政策の転換点」の解説
社会的市場経済が始まった頃には、1880年代にビスマルクが作り、その後様々なかたちで拡充されてきた社会保障システムが残っていた。15%の社会福祉配当は、ヨーロッパ諸国において先進的であった。社会的市場経済が社会福祉の次元で現れてくるのに決定的だったのは、年金改革の問題であった。積立方式の法定年金保険の価値は、ハイパーインフレと目立たぬ戦費調達(ドイツ語版)によってさらに減少していた。年金生活者の生活を保証するためには、年金保険には新しい基盤を導入する必要があった。議論の対象となったのは、国民資本主義、英国・北欧型の福祉国家への転換、ビスマルク社会保険の効率化であった。 エアハルトの考えでは、正しい市場経済は『万人のための福祉(ドイツ語版)』を約束し、いわゆる「国民資本主義」によって、広範囲な資産形成が支援されるのだという。これが目標としていたのは、社会保障をこれ以上必要としないほどの財産を市民たちから成る脱プロレタリア化した社会というユートピアであった。ルッツ・ライザリング(ドイツ語版)とヴェルナー・アーベルスハウザーによると、エアハルトが発展させた民族資本主義という考えは、ビスマルク型社会福祉国家に対抗する考えであった。この見方に対して、ハンス・ギュンター・ホッケルツ(ドイツ語版)によれば、エアハルトは年金改革を完全に否定したわけではなかった。確かに、年金と協定賃金とを結びつけることに反対したが、しかし一貫して、年金水準が向上することと、生産性が高まるのに合わせて年金があることを支持していた。これに対して、マーク・ハンスマンは、エアハルトが年金改革に対して「激しい抵抗」を行ったと見ている。ミヒャエル・ゲーラ―(ドイツ語版)によると、エアハルトは、加入義務のある個人保険を好んでいた。しかし「国民株」などで資産を得ようとする努力では、現実的に国民資本主義を促進することはできなかった。ヴィリー・ブラントは、1974年に次のように記している。「ルートヴィヒ・エアハルトが熱烈に好んだ『国民資本主義』は、夢に過ぎなかった。『国民株』は、成功した試みとして社会史に記録されることはないだろう」。 国民資本主義のデメリットとして、市場メカニズムから所得と資産の格差が生じる欠点がマイナス材料となっていた。すでに1950年代、所得と資産の格差が生じる傾向が明らかになっていたからである。資産政策的なレトリックにも関わらず、労働者が高齢になったときの生活保証のために法定社会保険を要求することが、あらゆる他の法定年金保険の規模と収入源よりも重要であり続けており、家庭が資産形成できる規模をはるかに凌駕していた。ベヴァリッジ・モデル(ドイツ語版)での福祉国家への転換のデメリットとしては、転換コストの高さがマイナス材料となっていた。1957年の年金改革(ドイツ語版)によって、ドイツのビスマルク型社会保険は、ベヴァリッジ・モデル(ドイツ語版)に対しても、ルートヴィヒ・エアハルトの縮小バージョンに対しても、価値があることが認められていたことが明らかになった。年金改革によって高齢者年金は、生活手当ではなく、給料の代わりと考えられるようになった。標準年金は、被保険者の全員の平均賃金の60%(1956年次では34.5%だった)であった。年金改革によって国民は社会福祉国家を再び信頼し、社会的な安定をもたらした。1957年以降、社会的市場経済の意味は、エアハルトのいう「国民資本主義」から独自の社会福祉国家と結びついた市場経済と変化した。まずこのことによって社会的市場経済の概念は、中道の合意事項となった。
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