社会性の観点から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:46 UTC 版)
『老人と海』はなんらかの政治的立場を明確に表明しているわけではなく、多様な読み方が許される作品である。クリスチャン・シンボリズムやアレゴリーとしての読み方もあれば、アメリカの批評家が否定した社会性の観点から読み解くことも可能である。この作品を直接的に読めば、キューバの労働を中心に成り立つ漁村共同体の物語であり、1950年代、アメリカの半ば植民地であったキューバの寒村に住む老人を主題としている点で十分な社会性を持っているといえる。 『老人と海』で描かれている魚釣りは、スポーツではなく生業である。この単純な物語の大部分が描くのは海での「労働」であり、それも近代化された工場での労働ではなく、自然を相手にする人間のもっとも原初的な労働といえる。陸地の見えない大海原は原初的な自然に最も近い場所であり、ただひとり小舟を操り、非近代的な装備で大魚と格闘する老人もまた、人間の原初的な姿、つまり原型である。そこで持てる知識と能力のすべてを傾けて獲物を仕留める老人の姿は、人間の原風景として読者を魅了する第一の点である。老人は不漁続きのためにサラオになったと見なされ、老人に付いていた少年は両親から別の舟に乗るように言いつけられるが、決して村の中で疎外されてはおらず、冒頭にはそんな老人をからかったり顔には出さずに同情する漁師たちの姿が描かれる。 老人は一人で漁をするため、この物語の闘いの中では人間同士の協力関係は欠落しているが、それが逆に社会的動物としての人間のありようを深く読者に印象づける。老人はせめてもの慰めに、野球や少年に想いを馳せることによって、人間社会を味方として引き寄せ、「人心地」を保とうとする。三日間の漁から夜半過ぎて村の港に帰るとき、老人は「おれはいい村に住んでいる」と思う。 マノーリン少年は、この物語の主要なもうひとりの登場人物だが、彼が物語に登場するのは初めと終わりの部分だけである。しかし、老人が海で漁をする間に「少年がいてくれたらな」と繰り返しつぶやくことで、少年の不在が強調され、存在感を増している。老人が少年のことを口にするのには、協力者としてというだけでなく、単に話し相手がほしいという理由もあった。漁から戻った老人は、「誰か話し相手がいるというのは、自分や海に向かってだけ話すより、どんなに楽しいことか」と思い、少年に率直に「お前がいなくて寂しかったよ」と語っている。この老人と少年の関係は、労働とコミュニケーションによって構成されている人間活動の原初的な姿を示している。 老人の孤独な敗北のなかに悲劇性を見るのが一般の批評であるが、すでに述べたように、老人は必ずしも孤独ではない。老人は釣り上げた大魚をサメに食い荒らされて戻ってきたが、決して打ちひしがれてはおらず、文体もヘミングウェイ独特の力強いハードボイルドで最後まで弛緩することがない。老人の満足感として、84日間の不漁続きから、ついに狙った大魚を三日間の格闘の末に釣り上げ、自らの潜在的能力を再確認したことがある。さらに、骨だけになった大魚を持ち帰ったことで、村の漁師たちの注目を集め、テラスの主人は「なんという魚だ。あんな大きな魚はいまだかつてない」と言う。老人は少年に「負けてしまったよ、マノーリン」と言うが、少年は「おじいさんは魚にやられたんじゃないよ」と答える。浜の人々は、老人が為したことを十分に理解して老人に対する尊敬の念を新たにしており、労働とコミュニケーションの集積によって成り立つ漁村共同体の一員として再評価されたことこそ老人の最大の満足であった。安心した老人は、少年に付き添われて満ち足りた思いで眠る。つまり老人の目的は十分に達成されたのだといえる。
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