相撲実況
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NHK入局前の記者の時代について、「当時の力士は全く話をしてくれず、取材には大変苦労した」と回想している。しかしその記者歴を活かして力士との交際を深め、アナウンサー時代には放送の中に力士の性格や生活ぶりを紹介して評判になった。 NHKに迎えられた当時、相撲放送はラジオ中継開始(1928年1月)以来の実況アナウンサーである松内則三の独壇場であったが、松内が同年11月の第10回夏季オリンピックロサンゼルス大会中継後に日本の国際連盟脱退に関する取材という大仕事が入ったため、翌1933年1月の春場所を実況するアナウンサーがいなくなってしまった。NHKと國民新聞は、本場所中に正面の桟敷席で隣り合わせで仕事をしていたこともあり、その意味でNHKの実況にとっても身近でかつ、相撲に詳しい山本に白羽の矢が立ったのである。 少年時代から相撲の知識は蓄えており決まり手の知識にも自信はあったものの、アナウンス訓練等は一切経験しないままであったため「書くこと」と「喋ること」の違いに戸惑い苦労したと、後に回想している。しかしこの場所、春秋園事件からの帰参で別番付扱い(いわゆる「別席」)で全勝優勝を果たした男女ノ川登三を「無冠の帝王」と称するなど、表現の巧さを発揮した。 同じアナウンサーの中で、美辞麗句を並べる松内則三や、理路整然とした実況の河西三省と比べ、記者からの転身のためアナウンス能力は拙劣で三河訛りがありながらも独特の味と親しみやすさを持っていた山本を、東京放送局演芸課長であった久保田万太郎は「悪文の魅力」と評したことがある。 力士に比べて地味な行司・呼出の役割などもアナウンスに織り込んでいた。また、大相撲は力士のみならず行司・呼出の三者で成り立つものであるから、行司や呼出が声を発しているときにアナウンサーは声を挟むべきではない、と説いていた。 和田信賢・志村正順といった後輩アナウンサーへの指導ぶりも熱心で、口で説明するだけではなく、自ら上半身裸になって廻しをつけ、実際に組ませながら相撲の決まり手や立合いの駆け引きを事細かに説明した。また、アナウンスの重点を単に勝ち力士に置くのではなく、相手力士がどんな体勢で負けたのかもきちんと説明せよ、と指導した。 相撲界の未来について、ごっつあん体質を脱却していっそうの近代化を進めないと、若貴時代が終わったあとは人気が低落して再び苦難の時期を迎えるのではないか、と警鐘を鳴らしていた。このことは1990年代後半以降、若貴ブームの終焉による人気低下、時津風部屋力士暴行死事件、大相撲野球賭博問題、大相撲八百長問題などの形で立証されることになった。
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