産業化のリーダー 1815年-1860年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/13 09:22 UTC 版)
「マサチューセッツ州の歴史」の記事における「産業化のリーダー 1815年-1860年」の解説
マサチューセッツは工作機械に精通することにより産業化において国および世界のリーダーとなった。ボストンの資本が多くの町に紡績工場を造った。新しい紡績の町としてローウェルとローレンスが創られた。紡績工場の所有者は短期間土地の農場の女性ローウェル・ガールズを使った後、アイルランド人やフランス人、カナダ人の労働者を雇った。移民の労働力は安月給で長時間働き、呼吸器系の病気や不安全な機械の事故で若くして亡くなった。この時期は子供も労働力として多く使われ、紡績工場に勤める家族はひどく貧乏であった。ローウェルは3万人の人口に30万個の紡績機と9千台の織機という町に成長した。紡績工場は高度に統合され中央制御された。巧妙な運河系統からの水力で機会が動かされた(蒸気機関はもう少し後である)。労働時間当たりの生産量は世界の繊維工業地帯の中でも最も効率的なものとなった。ウースターやスプリングフィールドといった工業都市は機械工業で世界のリーダーになった。ボストンには工場がなかったが、ニューイングランド全体の輸送中継基地として、また資本力、法律、医術、教養および出版の世界で国を引っ張っていく立場にありその重要性を増していった。 1820年3月15日、ミズーリ妥協の結果として、メイン地区が分離されアメリカ合衆国第23番目の州、メイン州が誕生した。 ニューヨーク市がエリー運河を開通・使用して西方の市場を席捲したことに刺激され、マサチューセッツは、丘が多くて運河ではうまくいかなかったこともあり、鉄道に転じた。1726年のグラニット鉄道は合衆国で最初の商業鉄道となった。1830年、議会は3つの新しい鉄道を認可した。ボストン=ローウェル間、ボストン=プロビデンス間および最も重要なボストン=ウースター間であった。1833年さらにウースターからオールバニを経てエリー運河とつなぐ西部鉄道を認可した。この路線により西部の穀物がボストン港に流れ始めヨーロッパへ輸出された。 ホーレス・マンは州の教育体系を国のモデルに仕上げた。ダニエル・ウェブスターやチャールズ・サムナーといった政治的指導者と共にワシントンでその指標を作り上げた。会衆派教会の多くの活動家達と共に奴隷制度廃止運動も活発になった。ウィリアム・ロイド・ガリソンが傑出した論客であった。ただし、「コットン・ホイッグ」である紡績工場主は南部の綿花栽培者との取引上の強い絆に悪影響を及ぼすと苦情を言った。会衆派教会は田舎では支配的であったが、都市部ではその堅苦しいカルビン教義に対し、新しい宗教が置き換わった。1826年、ハリエット・ビーチャー・ストウは次のように記した。 マサチューセッツの教養ある者はすべてユニテリアンであった。ハーバード大学の全ての理事と教授はユニテリアンであった。富める上流階級はすべてユニテリアン教会に集まった。裁判所の判事はユニテリアンであり、ピルグリム・ファーザーズによって慎重に規定された教会組織特有の様相を無効化することで判決を下していた。 この時代の重要な作家や思想家の多くがマサチューセッツ出身であった。ヘンリー・デイヴィッド・ソローおよびラルフ・ワルド・エマーソンはアメリカの思想界に貢献したことで今日でも著名である。超越主義として知られる知的活動の一部として、人間にとって自然界の重要さを強調し、また奴隷制度廃止論にも貢献した。
※この「産業化のリーダー 1815年-1860年」の解説は、「マサチューセッツ州の歴史」の解説の一部です。
「産業化のリーダー 1815年-1860年」を含む「マサチューセッツ州の歴史」の記事については、「マサチューセッツ州の歴史」の概要を参照ください。
- 産業化のリーダー 1815年-1860年のページへのリンク