産廃の持ち込み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:23 UTC 版)
豊島開発は、許可を得た直後より豊島の西端の22ヘクタールの土地に廃タイヤを敷地内に持ち込み野焼きするようになる。1980年(昭和55年)頃からは、廃プラスチック、紙くず、金属くずの混合物であるラガーロープ、廃油を持ち込むようになり、埋設や野焼きをするようになる。1983年(昭和58年)頃からは、自動車解体で発生する廃プラスチック類であるシュレッダーダスト、ラガーロープ、廃油及び汚泥等の様々な有害廃棄物を大量に搬入し、同所でラガーロープやシュレッダーダストに廃油をかけて野焼きしたり、埋め立てたりするようになる。豊島への産廃の持ち込みは秘密裏に行われたものではなく、定期航路のフェリーに産廃を満載したダンプカーやタンクローリーを乗船させて豊島の家浦港から上陸し、狭い島内の道路を産廃をまき散らしながらの持ち込みであった。使用された搬入車両は7台から8台あり、これらが島内の狭小路を一日に何十回と往復させた。1984年(昭和59年)頃からは廃棄物を運搬するための改造フェリー(宇高連絡船を入手して改造したもの)を就航させ、このフェリーに積載された産業廃棄物500トンを豊島家浦港で10トンダンプカーに積み替えて運搬するようになる。 これらの搬入作業によって定期フェリー内部は汚染され、港や道路に産業廃棄物を落下飛散させ、産業廃棄物から発生する悪臭を撒き散らされ、騒音及び振動並びに歩行者の通行が危険な状態が発生した。住民は香川県に対して事業者の違法行為を通告し、廃棄物の持ち込み中止と指導監督要請を繰り返したが、香川県は中止命令を出さなかった。1984年4月、住民は香川県に対して公開質問状を提出する。また香川県は118回の立ち入り検査を実施するも、廃棄物処理ではなく金属回収事業であり違法性はないという見解を示した。立ち入り検査に来た県職員は豊島開発に対して違法な廃棄物処理を止めるように指導するどころか、それを知りながら逆に「法の抜け穴」を豊島開発に指南していたことが兵庫県警の刑事公判記録に記載されている。 1987年頃には野焼きによる黒煙や煤が風向きによっては島全体を覆い、激しい悪臭を放つとともに島内に喘息患者が多発するようになる。持ち込まれた廃棄物は豊島開発の敷地から溢れ、近隣の他の地権者の敷地にまで及んだ。廃棄物の大半はシュレッダーダストであり、地中に地層状に厚く広範囲に埋設された。豊島は「ゴミの島」「毒の島」として全国的に知られるようになり、風評被害によって豊島を訪れる釣り客、観光客などが激減したほか、地場産業であるミカン栽培やノリ養殖では「豊島」の名称を冠して生産物を販売できなくなり、ハマチ養殖は廃業せざるえなくなった。産廃場を認可した前川忠夫は1986年に県知事を退職し、平井城一が知事を引き継いだが、結局香川県は豊島開発を野放しにし、対応することはなかった。
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