瓦工集団の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)
瓦工とは瓦生産に従事した職人の事である。長い歴史のなかでは瓦上長工、瓦大工、瓦師、瓦長などとも呼ばれたが、本記事では瓦工で統一する。 7世紀前半までは複数の瓦工集団が窯を共有して継続して操業を行い、窯は瓦陶兼業であったと考えられる。また瓦の生産地と供給地が離れている例が少なくない。こうした特徴は瓦工の人数が少なかったことを示すと考えられる。7世紀後半には地方寺院の建立が始まると瓦工集団は需要に答える形で移動し、近隣の瓦窯で生産が行われたと考えられる。藤原宮の造営で需要が急増すると地方の瓦工組織にその生産を担わせるようになる。藤原宮の瓦は讃岐国、淡路国、近江国から供給された。 8~9世紀に至ると官窯体制が整い、地産地消が行われた。宮都を担当した役所が管轄する官営の工房(中央官衙系瓦屋)、南都の大寺院が自給を行うための造寺司の管理下の工房(南都寺院系瓦屋)、国衙が管理し国分寺や国衙で使用する瓦を供給していた工房(国衙系瓦屋)がある。国衙系はそれ以前に地方寺院の建立に携わっていた瓦工が中心となったこともあったが、中央官衙系から派遣された瓦工によって再編されたとされる。こうした工房の間で人的移動を含む交流があったことは瓦当文様や一枚作りなどの制作方法の伝播によって想定されるが、これを中央から地方へ瓦工が出張したとみるか、中央での労役を終えた地方の瓦工が地元に戻ったとみるかは説が分かれている。なお『正倉院文書』などによると、この頃の瓦工は瓦作工、瓦焼工、瓦葺工などに分業化されていた。 律令制が崩壊する平安時代後期には、再び遠隔地から瓦が供給されるようになる。特に和泉産の瓦は山城国や鎌倉に多く搬出された。12世紀中頃に陸奥国平泉の奥州藤原氏が山城国の瓦工を招聘した例などを先鞭に中世では中央官衙系、南都寺院系の瓦工が地方に出張して造瓦する例が現れる。かれらは自営独立した世襲制の専業職人集団で、生業として移動したと考えられ、古代の瓦工が政治的関係で移動したのと本質的には異なるとされる。また、中世の瓦工たちは自らの技量を誇るように名を瓦銘に残した。もっとも有名なのが14~16世紀に畿内で活躍した橘一族で、橘正重や国重、吉重を輩出している。 織豊期に城郭で瓦が用いられるようになると瓦の需要が急増し、これを供給するために大名が瓦工集団を抱えるようになる。坂本城や勝龍寺城などの織田信長家臣団の居城では同笵瓦が確認されており、信長直属の瓦工集団がいたと考えられる。豊臣政権の築城では大名に普請を分担させるようになるが、瓦工集団も大規模な編成が行われ、瓦御大工と呼ぶ総責任者の元で異なる流派が協業したと考えられる。また江戸幕府の御用瓦師として有名な寺島家の由緒書には徳川家康の指示で各地で瓦を生産したと伝わっている。近世になると各城下町で瓦生産が行われるようになり地瓦が生まれる。各地に「瓦町」などの地名があるのはその名残である。
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