球界への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 02:56 UTC 版)
1977年12月、江川が2度目の入団拒否を表明したため、ドラフト制度のため選手が自分の所属する球団を選べず、憲法第22条第1項が定める「職業選択の自由」に反するのではないかという議論が起きた。1978年2月16日、参議院法務委員会で質疑の対象になり、鈴木龍二、三原脩、川上哲治など球界関係者5人が参考人として呼ばれた。78年3月28日のプロ野球実行委員会においてドラフト制度を再検討することを決定し、ドラフト制度審議委員会の設置を決めた。その結果、1球団の指名は4名までとし、指名が重複した場合に抽選を行い独占交渉権を決定する方式に変更された。 また、江川問題は沢村栄治賞の選考基準の変更にも影響を与えた。当時、沢村賞は賞を制定する読売新聞社からの委属で在京のマスコミ各社の運動記者クラブの部長会が選考を行っていた。江川はプロ2年目の1980年に16勝をあげ最多勝のタイトルを獲得したが同年の選考では「該当者なし」と決定し落選。翌1981年には、20勝6敗の好成績で最多勝、最優秀防御率等投手タイトル五冠を獲得したが、沢村賞には西本聖が選ばれた。この選考は波紋を呼び、翌1982年、運動記者クラブの部長会は沢村賞の選考を辞退。元プロ野球投手から構成される「沢村賞選考委員会」による選出に変更された。
※この「球界への影響」の解説は、「江川事件」の解説の一部です。
「球界への影響」を含む「江川事件」の記事については、「江川事件」の概要を参照ください。
球界への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 04:25 UTC 版)
荒川のプロ入りをめぐるトラブルを機に野球協約が改定され、新人選手の初年度の移籍が禁止されるようになった。ただし1979年度より規定が改正され「開幕前の移籍禁止」に緩和された。江川卓はいわゆる「江川事件」の際、最終的にこれにより開幕後に新人で巨人への移籍という形を取っている。 江川事件が国会でも問題となった1978年2月16日、プロ野球ドラフト会議と職業選択の自由に関する当事者として、荒川は参議院法務委員会に参考人として呼ばれた。 荒川事件の影響はその後も、大洋ホエールズおよび後身球団である横浜ベイスターズにおいて長く尾を引くこととなった。同球団は2008年度ドラフト会議で松本啓二朗と細山田武史を指名するまでの40年間、早稲田大学に在籍する学生選手を指名することはなかった。横浜の早大生ドラフト指名がようやく可能となった背景には、横浜チーム運営統括の村上忠則と早大野球部監督の應武篤良が、社会人時代から付き合いのあった間柄だったことで、横浜・早大間に再びルートが確立されたことが大きい。同年ドラフト会議後には佐々木邦昭球団社長が「今日は歴史的な日」とも語っている。 現在はトレード移籍を前提とした選手契約は禁止されており、1995年に近鉄バファローズが福留孝介を1位指名した際、入団を渋る福留に「3年後の移籍を条件に」と交渉した近鉄がコミッショナーから注意を受けている。福留は結局近鉄には入団せず、3年後のドラフト会議で中日に指名され入団した。なお、禁止されているのはあくまで国内球団でのトレード移籍であり、大谷翔平は「5年後にポスティングシステムでのメジャー移籍を容認する」という条件で渡米を断念し、日本ハムに入団している。大谷は約束通りに5年後にポスティングでアナハイム・エンジェルスに移籍した。 アメリカのメジャーリーグ (MLB) では、後に千葉ロッテでもプレーするピート・インカビリアが、1985年にカナダのモントリオール・エクスポズからドラフト指名された際に「寒地でのプレーは嫌だ」と入団拒否したが、エクスポズ側からのトレード移籍を前提に契約合意し、その後にテキサス・レンジャーズにトレード移籍した。MLBではこの件を受けて「ドラフト獲得した選手は契約して1年が経過するまではトレードに出せない」という条項が制定された。
※この「球界への影響」の解説は、「荒川事件」の解説の一部です。
「球界への影響」を含む「荒川事件」の記事については、「荒川事件」の概要を参照ください。
- 球界への影響のページへのリンク