球界初のGM就任
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1990年に阪神タイガース監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて臨時コーチを務め、東京遠征時には仲田幸司、猪俣隆、野田浩司を指導した。特に仲田には徹底的に指導し、鳴かず飛ばずだった仲田は2年後の1992年にエースとして君臨する。 広岡は、アメリカに比べて日本は指導者育成の場が少な過ぎると考え、1988年に「ジャパンスポーツシステム」を設立、アメリカの著名選手や球団経営者を招いて勉強会「日米ベースボールサミット」を開催した。これは1990年まで3回実施され、MLBコミッショナーを務めたボウイ・キューン、ドン・ドライスデール、ボビー・ボニーヤなどのMLB元指導者、およびボビー・バレンタイン(テキサス・レンジャーズ監督)などの現役監督や選手が来日したほか、日本からも広岡をはじめ張本勲、鈴木啓示、古葉竹織らが参加して議論を繰り広げ、当時プロ入り前だった野茂英雄(新日本製鐵堺)、古田敦也(トヨタ自動車)などのアマチュア選手も参加し、実技指導を受けた。また、「ジャパンスポーツシステム」は日本人選手の受け入れを目指してアメリカのマイナーリーグ球団の経営にも乗り出し、当時ミネソタ・ツインズ傘下1Aだったバイセイリア・オークスを買収、読売ジャイアンツから吉田孝司コーチ、藤本健治・佐川潔・小沢浩一・四條稔を受け入れた。1990年にはトロント・ブルージェイズ傘下3Aのバンクーバー・カナディアンズを買収した。バンクーバーで通訳・経営に携わったエーシー興梠は能力を買われてロサンゼルス・ドジャースアジア地区担当取締役に就任し、黒田博樹を獲得している。 1994年11月1日、オーナー代行・重光昭夫に誘われて千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャー(GM)に就任した。GM制度は日本球界初の試みで、当時のロッテは毎シーズン下位と低迷し、「オーナーから『全部任せる』と言われ、革命的なことをやる必要がある」と、前述の日米野球サミットで知り合ったボビー・バレンタインを監督に招聘、選手ではフリオ・フランコ、ビート・インカビリア、エリック・ヒルマンを獲得する。しかし、バレンタインとはシーズン序盤から野球観の違いで確執を起こし、伊良部秀輝・小宮山悟・愛甲猛・ヒルマン・フランコら主力選手とも確執を起こした。広岡は二軍ヘッドコーチだった江尻亮を一軍に昇格させ、バレンタインの意向を遮って休養日に練習を課したが、広岡はバレンタインが泣きついてきたため、日本式の練習を導入し、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している。チームは後半戦から調子を上げたため、新外国人選手獲得のために渡米し、帰国後にバレンタインが「自分(広岡)に任せていたらチームはもっと上(位)に来ていた。GMが横槍を入れたから」という趣旨の記事を書かせたという。 チームは最終的に、1985年以来の2位へ躍進したが、江尻と江藤省三、尾花高夫が「選手が不調になればすぐ対処するのがコーチの仕事なのに、監督は『疲労が原因だから休ませれば良い』と言う。これでは我々コーチの仕事が無い。出来れば(ロッテを)辞めたい」と辞任を申し出た。これを受け、オーナー代行・重光昭夫に事情を説明すると、オーナー・重光武雄の裁定を仰ぐこととなったが、武雄から「監督解任でも良いか?」と聞かれて「困りません」と答え、同年限りでバレンタインの解任が決定、後任に江尻が昇格した。広岡は自身に「監督を解任する権限は無かった」と話しているが、後にバレンタインは「GMは選手集めが仕事なのに、広岡はそれをせずに現場へ口を出すだけだった」と批判し、広岡は「監督は泥まみれで選手を教えるのが仕事なのに、バレンタインはやらなかった」と反論している。1996年は江尻が監督を務めたが、フランコ、インカビリアに替わる新外国人野手として獲得したランディ・レディ(登録名・スパイク)、ジャック・ドウティー(同・ジャック)が絶不調で6月に解雇される非常事態に陥る。その後、ウェス・チェンバレン、ダレル・ウィットモアを獲得したものの5位に終わり、広岡は3年契約を1年残して同年10月8日に解任された。
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