現代心理学への変化
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他に心理学の誕生に影響を与えたものとして、催眠術(催眠療法の先駆者)の有効性や骨相学の価値にまつわる議論がある。前者は1770年代にオーストリアの医師フランツ・アントン・メスメル(1734年-1815年)が発展させたものである。彼は重力の力や、後には「動物磁気」を用いて様々な肉体的・精神的な病気を治療することを提唱した。メスメルと彼の療法はウィーンおよびパリで徐々に人気を博するにつれて、訝しんだ官憲の監視下に入ることになった。1784年にはパリでルイ16世によって検査が実施され、アメリカの使節ベンジャミン・フランクリン、化学者アントワーヌ・ラボアジエ、医師ジョゼフ=イニャス・ギヨタン(後にギロチンを広めた)らが参加した。メスメルの手法は無益だと彼らは結論した。インドで活動したポルトガル人司祭アベ・ファリアは再び動物磁気に対する大衆の関心を引いたが、メスメルとは違い、ファリアはその効果が患者の協力と期待の力によって「心の内から生じる」と主張した。このように論争が起きてはいたものの、「磁気」による療法はメスメルの弟子その他に受け継がれ、内科医ジョン・エリオットソン(1791年-1868年)、外科医ジェームズ・エスデイル(1808年-1859年)やジェイムズ・ブレイド(1795年-1860年、メスメル主義者の言う「力」よりもむしろ患者の意思の特性として時期を再定式化し、ヒプノティズムという名を与えた)らの研究によって19世紀イングランドで再浮上した。メスメル主義はイングランドで19世紀を通じて強力な(医学的ではないにしても)社会的な崇拝者を得て存続した(see Winter, 1998)。ファリアの方法はナンシー学派のアンブロワーズ=オーギュスト・リエボーやイッポリト・ベルネームの分析的・理論的な著作で大きく展開された。ファリアの理論的な立場、そしてそれに続くナンシー学派の立場を経験したことが後のエミール・クーエの自己暗示の手法に大きく影響した。自己暗示はパリのサルペトリエール病院の医長ジャン=マルタン・シャルコー(1825年-1893年)によってヒステリーの治療法として採用された。 骨相学は「器官学」、つまりドイツの医師フランツ・ヨゼフ・ガル(1758年-1828年)によって発展させられた脳の構造に関する理論、として出発した。脳は非常に大きな機能的な「器官」に分けられ、それぞれの器官が人間の特定の精神的能力や性向―希望、愛、霊性、強欲、言語、物体の大きさ・形・色を検出する能力等々―を司っているとガルは説いた。また、それぞれのこういった器官が大きければ大きいほど、その器官に対応する精神的特性も強力になるとも彼は唱えた。さらに、人の頭蓋骨の表面を調べることでその人の器官の大きさを検知することができると彼は主張した。ガルの脳に関する極端に局在論的な立場はすぐに、特にフランスの解剖学者マリー・ジャン・ピエール・フルーラン(1794年-1867年、脳に機能局在性などないと主張して鶏に対する穴あけ手術を行った)による批判を受けた。ガルは(見当違いであったにせよ)真剣に研究を行っていたが、彼の理論は助手のヨハン・ガスパル・シュプルツハイム(1776年-1832年)によって営利目的の通俗的・興業的な骨相学に仕立て上げられ、特にイギリスで独立した開業医の産業的繁栄を大量に引き起こすことになった。スコットランドでは宗教的指導者ジョージ・クーム(1788年-1858年、彼の『人間の構造』は19世紀のベストセラーの一つ)の手により、骨相学が社会的改革運動や平等主義と強く結びついた。骨相学はアメリカにもすぐに広まり、臨床的な骨相学の地方巡業が行われて希望する客に精神的健康の診断がなされた。
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