灯台補給船そうや(LL-01)
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「宗谷 (船)」の記事における「灯台補給船そうや(LL-01)」の解説
1948年(昭和23年)11月の引揚任務終了後、宗谷丸は商船風に外見を改め、真岡-函館間の輸送業務に従事していた。1949年(昭和24年)8月1日、宗谷はGHQより正式に帰還業務を解かれた。8月13日に来訪した海上保安庁の係官福井静夫により調査された宗谷丸は使用可能と判断された。当初、海上保安庁は宗谷丸を水路測量船として使用する予定だった。しかし、民間からチャーターし灯台補給船として使用していた第十八日正丸が船主から解傭を求められ返還するのに伴い、急遽灯台補給船の代船が必要になり、この宗谷丸が候補船の一隻となった。候補船になったもう一隻は当時青函連絡船で用いられていた宗谷丸であり、こちらは元々稚泊連絡船用砕氷客貨船として設計建造された船で砕氷能力もあったため候補船として適当と考えられていた。だが、GHQが求める設標船としては測量艇のデリックを備えた海上保安庁の宗谷丸のほうが好都合だったため、最終的にこちらが選出された。このとき同名船2隻を候補としたため、海上保安庁籍の方の宗谷丸を宗谷に再改名することになった。 11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された宗谷は、12月12日付で海上保安庁へ移籍した。もっとも宗谷は海上保安庁発足時から水路測量船としてその保有を既定事実的に認められており(昭和23年法律第28条号 海上保安庁法第38条)選定されるべくしての編入であった。石川島重工業で改装工事に着手、ソナーを撤去、売店を設置、海軍制式の水管缶から円管に再び戻される。船体は白に塗り替えられ、五代目灯台船「羅州丸」の号鐘を継承した。 1950年(昭和25年)4月1日、改装を終えた宗谷は七代目灯台補給船(LL-01)となった。この頃、灯台を回る一年間のコースは、東京港竹芝桟橋沖を母港として、春は本州を一周、夏は宗谷岬など北海道中心、秋は九州本土、南西諸島、冬は瀬戸内海の島々と四国地方を巡った。1952年(昭和27年)6月頃、改装され、スペリーSO-3 対水上捜索用レーダー設置、SCAJAP番号廃止、船名をひらがな表記にした。 灯台補給船時代の特殊な任務に、奄美群島現金輸送がある。1953年(昭和28年)12月15日、同年度第三次補給航海を終えて門司港に入った宗谷に鹿児島港回航の命令がでた。アメリカ統治下にあった奄美群島が、1953年12月25日に日本に返還されることになり、それにともなう約9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするため、当時、海上保安庁最大の船だった宗谷が指名された。12月20日深夜、鹿児島を発した宗谷は21日名瀬に入港、各島を回り、12月25日に名瀬に帰港。12月27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、12月28日に鹿児島に戻った。明けて1954年1月3日、再び名瀬に向かう。各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せる。1月9日、鹿児島に帰還した。 1950年4月20日-6月6日、第一次補給航海を実施した宗谷は、南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半、この任にあたった。宗谷は灯台守からは就役直後は「燈台の白姫」、晩年は「海のサンタクロース」と呼ばれ親しまれていた。当時大ヒットした映画「ビルマの竪琴」、「喜びも悲しみも幾歳月」には灯台補給船時代の宗谷が登場する。 1955年7月25日-8月27日、麻布海洋少年団を乗せて日本半周の第二次補給航海を行った。
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