演奏会場と録音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 15:18 UTC 版)
演奏は当初、ニューヨーク、ロックフェラー・センター内RCA本社ビル8階にある8Hスタジオにコンサート・ホールと同様の舞台を設置、最大で1400人の聴衆を迎え入れて放送された。 同スタジオは主にラジオ・ドラマや話し言葉収録用に設計されており、吸音性が強く、そこでのオーケストラ演奏は必要以上に「乾いた」「スタッカートの効いた」印象を聴く者に与え、通常のコンサート・ホールの音響とは大きく異なっていた。トスカニーニがどうしてこのスタジオでの収録を認めたのかについては様々の説がある。 単に大聴衆を収容できるスタジオが他に存在しなかったため。 トスカニーニ自身、もとから「乾いた」「クリアーな」サウンドが好みだった。 加齢に伴う聴覚の微妙な障害から、必要以上に輪郭のはっきりした音響を志向していた可能性。 通常のホールから放送された場合、残響が効きすぎて音がぼやける傾向にあるのに対し、このスタジオの音響はラジオでの放送ではちょうどよい「丸み」を帯びた(この趣旨を述べている同時代人は多い)。今日発売されている音源は(海賊版を別にすれば)このラジオの過程を経ていないので、当然乾いたサウンドになる。 なお、マイクロフォンの設置場所とその本数、残響板の設置に関してもNBCラジオの技術者は様々の試行錯誤を続けており、特に1930年代の録音は不安定とされている。1939年から1940年のシーズンでは、電気的残響を放送に付加する試みもなされた。 しかし一方で、トスカニーニもオーケストラも、このスタジオの音響にはかなり悩まされたというNBC交響楽団の楽団員による証言も残っている。 1941年から1942年のシーズン以前に8Hスタジオは大幅な音響改修工事が施され、上記の欠点のいくつかは改善をみたとされる。また、もう一人の常任指揮者ストコフスキーが8Hスタジオを好まなかったこと、また1950年に8Hスタジオがテレビ放送用スタジオに再改装されたこともあり、次第にコスモポリタン・オペラ・ハウス(シティ・センターともいう)やカーネギー・ホールなど別会場を使用しての公開録音も増加した。1954年4月4日の有名なトスカニーニの最終コンサートも、そうしたカーネギー・ホールでの開催だった。 放送セッションは一般公開された。プログラムのページをめくる音をマイクロフォンが拾うことを怖れて、会場で配布されるプログラムは絹に印刷され、また遅刻入場、咳などは厳禁とされていた。1937年当時のアメリカの法律では、公開放送に聴衆を招く際は有料であってはならない、とされていたので、観覧希望者はNBC放送局に参加を求める手紙を送り、抽選で入場整理券が返送された。トスカニーニの初御目見えにあたる1937年12月25日の場合、8Hスタジオの1400人の収容人数に対して参加希望者5万人超が殺到した。あるいは放送局関係者の「コネ」を頼る方法もあり、ドイツから亡命中の作家トーマス・マンもこの方法で1938年3月5日(最初のシーズンの最終日)に会場8Hスタジオにいたことがわかっている。 いずれの演奏会場でも、セッションはNBCの技術者によって同時録音もされている。当初は17インチ径の特別仕様アセテート盤が使用され、後に1951年から1952年のシーズンからはオープンリール・テープも併用された。RCA社から発売されている「公式」リリースの多くはこうした原盤に基づいており、必要な場合リハーサル時の録音によって瑕疵を補修している。あるいはリハーサル時の録音に対してのみトスカニーニが発売許諾を与えているケースもある。またこれとは別系統の録音として、NBC系列ネットワーク局で後日放送するためのテープが流出したもの、愛好者が個人的に放送をエア・チェックした海賊版などさまざまの音源が存在する。NBC響の録音を評価するときはどこの会場のものであり、それは放送の同時収録に基づくものか、リハーサルも含むものか、放送のエア・チェックか、を吟味する必要があるとされる。
※この「演奏会場と録音」の解説は、「NBC交響楽団」の解説の一部です。
「演奏会場と録音」を含む「NBC交響楽団」の記事については、「NBC交響楽団」の概要を参照ください。
- 演奏会場と録音のページへのリンク