温交会と共楽館
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共楽館は完成当初、日立鉱山の鉱山事務所が運営を行っていた。前述した1918年(大正7年)の吉岡鉱山視察団の記録によれば、共楽館は収支を計算に入れつつ入場料を決めていたという。おおむね活動写真や浪花節といった興行で利益を出し、一流俳優を呼ぶ時には赤字を出し、トータルで損出を出さないようにしていた。後の共楽館の運営形態から判断すると、この場合の損出を出さないというのは、俳優を呼ぶ費用など実費を回収するという意味合いであり、共楽館のスタッフの人件費や建物の維持管理費用は収支から除かれていると考えられる。入場料は15銭から50銭の間に設定され、場内は禁酒であり、出し物も殺伐とした内容のものは避けていた。入場料は他の劇場などよりもかなり安い設定であり、夏祭りである山神祭や正月興行などは無料であった。そのため鉱山労働者たちは山神祭や正月興行の際は、親戚を呼び寄せて一緒に楽しむことも多かった。また教化や精神修養を目的として行われた講演活動やキャンペーン的な行事は当然無料であった。 ところで共楽館が出来た頃、日立鉱山でも労働運動が活発化していた。1912年(大正元年)8月に発足した友愛会の勢力が日立鉱山にも浸透し、共楽館が完成した翌年の1918年(大正7年)になると友愛会日立支部の活動は活発化し、多くの日立鉱山の鉱山労働者たちが加入するようになった。そして第一次世界大戦終了後の不況下で、失業や生活苦への不安から労働者側と経営側との対立が激化する中、1919年(大正8年)11月14日に発生した日立製作所日立工場の火災をきっかけに、日立製作所、日立鉱山当局は幹部を中心に友愛会員の解雇を通告した。この事態に友愛会本部も動き、12月1、2日に日立に鈴木文治、麻生久、片山哲らを派遣し、解雇反対大演説会を開催する。12月2日夜、友愛会員と警官隊との衝突が発生し、多くの友愛会員が検挙される友愛会事件が発生した。 友愛会事件後、日立鉱山内の友愛会組織は壊滅する。しかし友愛会の勢力伸張を見た日立鉱山当局は、労使間の意思疎通を図る機関を創設し、そこに鉱山労働者たちを所属させるという労働運動対策を実施することにした。折りしも足尾銅山、小坂鉱山などでも同様の組織が立ち上げられていた。日立鉱山では1920年(大正9年)2月に温交会が設立された。温交会は鉱山労働者たちと鉱山当局との意思疎通、相互共済、そして知徳の涵養を目的として設立された団体とされ、基本はいわゆる労使協調機関であるが、久原房之助が唱えた理念である「一山一家」をより強力に押し進める役割を担うことになった。 温交会の運営は、鉱山当局と鉱山労働者の中から選出された評議員による評議員会が運営の決定権を持っていた。温交会には共済部、福祉部そして娯楽部が設けられ、第1回の評議員会で共楽館を日立鉱山の鉱山事務所ではなく、温交会が運営する方式にしてはどうかとの意見が出され、実際、温交会が運営することになった。しかし温交会の共楽館運営ではこれまでを大幅に上回る欠損を出してしまい、1921年(大正10年)2月の第2回温交会評議会で再び日立鉱山の鉱山事務所の運営に戻された。それでも興行内容の選択、入場料の決定に温交会は関与し、催し物の開催時は温交会の評議員が場内整理を行うことや、職場、職員、家族が参加する素人演芸会の開催に向けて努力し、鉱山事務所も協力していくことが決められた。このとき提案された素人演芸会は、温交会の自主企画の素人演芸会として定着し、職場を挙げて極めて多彩な内容で盛大に行われた。このように温交会は共楽館の運営に深く関与していくことになった。
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